羊の群れを遠目に眺めながら、サリは街を離れる方向へ歩いている。
 黒猫の尻尾が、ふらふらと背後で揺れているのは、緑の大地に人目のないことを確かめてあるから。
 それから、お気に入りの場所へ向かっているから。
 だいぶん歩いて、街の影がおぼろに感じられ始めた頃、サリは注意深くあたりを見回した。ついでに、鼻をくんくんと動かして、人の気配を探る。
 にやりと笑んで。
 背を覆う艶やかな漆黒の翼が、ばさりと大きくはばたいた。




真夏のシダ。
 サリの実家に程近い、草原の街にて。


「おまえ、その薄着でどこ行ってたんだ」
 気持ちよく穴場の某所で水浴びをして、帰ってきたら宿の前で仁王立ちした星樹がいた。
 恐怖だ。
「どこって、近所の泉だけど……」
「近所、ねえ」
 目が細められて、こわい表情。そんな顔されると、サリがますます反抗したくなるとわかってやっているのだろうか。
「な、なんだよ。星樹がひとりで仕事に行くから、俺もちょっと情報収集がてら……遊びに行ってただけだろ」
 言い訳が言い訳になってない。案の定、星樹は眉間にぴきっとしわを寄せた。
「何なんだそれは。まあとにかく、入るぞ」
 乱暴に引っ立てられ、2階にある昨日取った部屋へと向かう。部屋に入ると、星樹はばたんと扉を閉めた。
 小さな部屋だが、清潔で、上々の宿と言えるだろう。狭苦しい長椅子のような寝台が2つ。一緒に寝るにも狭すぎて、昨夜は別々に床に着いたのだった。
 星樹は、小さな窓から外をちらりと確認すると、窓にかかった藍色のカーテンを下ろした。サリは、何をする気かと警戒心丸出しで星樹を見守っていたのだが、彼は窓側の寝台の上に座り、ただ穏やかにサリを手招いた。
「おいで」
「ね、仕事、どうだったの?」
 口調も表情も穏やかだったわりに、サリは不穏なものを感じたのだけれど、逃げたところで仕方ないので従順に側に寄る。
 そうしながら、ついでのようにサリが訊いたことは、話をごまかすためじゃない。本当に興味があったのに、星樹はおざなりに答えた。
「どうって。青湖の王が持ってきた仕事だからな」
「だから?」
「厄介だな、まあ。悪くはないが」
 手を引かれて、隣に座らされる。
 長くて形の良い指が、上着の前の紐を引っ張って、ほどく。
「な、なに」
 無論、自分の、ではなくてサリの服だ。
「黙ってろって」
 口調はやはり静かだったけれど、それはただの作戦かもしれない。ほら、高圧的にすればするほど、サリは跳ね返りたがるから。
 サリの上着を脱がすと、その背に現れるのは小さな漆黒の翼。
 上着の下のシャツは、有翼種仕様で、背中が大きく開いている。 背中に通すようになっているはずの紐が、妙な具合にほどけているのは、乱暴に脱いだからか、適当に着たからか。
「おまえ、タオルで適当に拭っただろう」
 艶のある黒い羽に、ほつれたように乱れた部分があるのを見とがめた星樹は、やっぱりと顔をしかめた。
「どうせ日に当ててれば乾くんだ、乱暴に拭うなよ」
「あんまり出してるな、って言ったの、星樹だろ」
「どうせ、水浴びしてる間は裸だったんだろうが。一緒だ、一緒」
「う〜」
「ごまかすな、馬鹿。おまえ、自分の立場がわかってるのか?」
「わかってるよぅ。あっ、だめ、触んなくていいって!」
 唐突に、サリが身をよじった。サリの翼が整っていないのは自分の不覚だとばかり、星樹が羽づくろいのために手を伸ばしたからだ。
 なるほど、そのためにカーテンを引いたんだ、と今ごろ納得しているサリは、相当鈍い。
「ダメだ。おとなしくしてろ」
「やっ、夜でいいだろ、なぁ。やだよ……んぁっ」
 大きな手でやんわりと翼をなでられて、サリの背がのけぞる。
「ちょっと我慢してろよ。ざっと整えるだけだから」
「やっ、無理!」
 サリの翼は、星樹の手より一回りほど大きいくらい。手の内におさまる、とまではいかないものの、そっと手を動かすだけで片方の翼の全体を撫でられてしまう、そんな大きさだ。
 嫌がってふるふると動く翼と、隙あらば星樹を引っ掻いて逃走しようと身体を固めるサリ本人とを、巧みに押さえつつ、星樹は事務的に作業を進めた。
「ふっ、や、せー……うう〜ばかぁ」
 翼の、骨の近くを撫でられると、ぞくぞくと背筋に痺れが走る。
 星樹の手に、いやらしい意図なんてまったくないことは、サリもわかっているのだけれど、それでも感じて仕方ないから、嫌なのに。
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」
「せーじゅなんか嫌いだぁ」
「はいはい」
 最後にぽんぽんと、翼の下の背を軽くたたいて、星樹が作業を終える。
 頬を赤く染めたサリは、伏目がちにごそごそと動いて、いち早く星樹の腕から脱走しようと試みた。
「こら、待て」
「やだっ」
「襲うぞ、こら」
「離せよ!」
 寝台にかけてあるキルトの上掛けにもぐりこもうとして、星樹に捕まえられ、うつ伏せで押さえ込まれたサリは手足をばたばたさせた。結構本気で抵抗しても、星樹はサリを難なく押さえてしまう。
 星樹に言わせると、力じゃなくて、コツの問題らしいけど。
「ひきょーものぉー!」
「馬鹿か」
 背後で星樹が笑っているから、サリは唇をとがらせて、仕方なく身体の力を抜いた。暴れたおかげで、不必要に高まった身体の熱は、どこかへ行ってくれたようだ。息は切れたけれど。
 脱げかけていたシャツを、星樹が丁寧に着せ直してくれる。
 それから、翼を隠すために少しゆったりさせてある上着を、背中からかけて。
「はい、終了」
 言われて、サリはゆっくりと身体を起こした。
「んぬーー」
 とか、妙なうなり声をあげているのは、単なる照れ隠しだ。サリはどうしても、気軽に「ありがとう」のひとことが言えない。言えなくて、うじうじする。
 すると、ふ、っと星樹の長い指が目の前に伸びてきて、口の中へ突っ込まれた。
「んがっ、んがが、あいうんなおっ、んが!」
「ふっ、変な顔」
「んなーーー!!」
 雄たけびとともに飛ばされた枕は、壁に当たって落ちた。わずかな隙に扉のところまで退避した星樹が、勝ち誇ったように不敵に笑う。
「ほら、ぼんやりしてるなよ。食事に行くぞ」
 そう言って、扉を開けて出て行く後姿に、サリはもう一声吠えてから、ぴょんと飛び上がって床の上に着地した。
 慌てて上着に袖を通して、駆け出していく。
 きっと、すぐに「ちゃんと前を留めろよ」と、がみがみ言われるに違いないけれど。

top
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送