淡い光

 マンションの鍵を開けて室内に入ると、とっくに帰宅しているはずの同居人の気配はなく、廊下は真っ暗だった。
 けれど、玄関の明かりをつけて足元を見下ろせば、遥の履いているスニーカーが転がっていて、持ち主の在宅を示している。
 いまどきの、おしゃれに気を遣う男子高校生の部類に入るはずの彼は、そのくせ細かいことにはてんで無頓着で、 ノーブランドのスニーカーをずっと履いていたり、買ってやったユニクロを三日で着まわしていたりする。 今もこのスニーカーがここに転がっている以上、遥が家にいるのは確実と言えた。

「ただいま」
 そんなことを視線を落とした一瞬に確認し、伊織は小さくつぶやくと、靴を脱いだ。
 こんな挨拶をする相手など、母親を亡くして以来まったくいなかっただけに、どこか照れくささをおぼえる言葉ではある。それでも、いつも耳ざとく伊織の帰宅に感づいては、ぱたぱたと走って出てくる相手に対して、かけてやる言葉は必要だ。
「おかえり」と、こちらもくすぐったそうな表情をする遥に、応じる言葉はひとつきりで、でもそれだけで十分な価値があるのだと思う。
 最初に気づいたとおり、室内はどこも暗かった。もう八時を過ぎて、普段なら遥は自室にこもって勉強している時間帯だが、それでもいつもは、リビングや廊下の明かりがついたままになっている。

「遥?」
 やはりいないのだろうか。伊織は首をひねり、ネクタイを緩めながらリビングへ足を踏み入れた。
 夜は閉めることにしているカーテンが開きっ放しで、街の明かりが室内に灰色と黒の深い濃淡を落としている。
 青山の閑静な住宅街の中にあるこのマンションには、ネオンのまがまがしい光が入ってくるようなことはないが、外が真っ暗になるようなこともなかった。
 無造作に、脱いだ上着をソファの背にかけようとして、伊織は手を止めた。淡い光の中だが、ソファの上に横たわった人影ははっきりと見えた。
 その安らかな寝顔までも。
「ったく。いつから寝てるんだ?」
 歩み寄って、顔を覗き込むと、かえって影になってよく見えなくなった。が、構わずに手を伸ばして頬を包み込み、薄くあいた唇を指でなぞる。
「ん」
 遥がかすかにうめいて、少しだけ顔をそむける。
 だが、それに伊織の手を振り払うほどの効力があるはずもなく、無遠慮な指先は唇の間から口内へもぐりこんだ。
 条件反射なのか、唇はすんなりと指を受け入れてしまう。それから、進入物を訝しむように、眉根が寄せられ、舌が軽く指に触れてきた。
「んぁ?」
 間の抜けた声を出して、遥がぱちりと目を開けた。
「なにしてんの?」
 指を口に含んでいるせいで、むにゃむにゃした声。伊織は微笑した。
「何って、なあ」
 誘うように指を動かすと、舌が絡み付いてくる。
 伊織が少し動いて、遥の身体の上にのしかかると、自分の影になっていた遥の顔がよく見えるようになった。
 まだ少し眠たげな瞳が、けれど淫蕩な色をたたえて伊織を見上げる。
 伊織は指を引き抜くと、誘うように濡れた唇に食らいつくように口づけた。
「ん……ふっ……伊織」
 制止したいのか、続きを促したいのかわからない、中途半端な手つきで遥が伊織の肩に触れる。
 伊織はすぐに唇を開放して、首筋へキスを落とした。やわらかく噛み付くと、細い声があがる。
「あ、やっ……跡、だめだって」
「明日、土曜だろう?」
「忘れたの? 学校祭だって言っただろ」
 遥が通っている高校は成光「学院」なので、「学園祭」とは言わないそうだが――内輪では成光祭というらしいから、実質上関係ないはずなのだが――とりあえずどこの学校にでもあるそれを、遥は結構楽しみにしているらしかった。
 屈折しているようで、彼は結構単純だ。
「ああ、そうだったな」
 キスマークのひとつやふたつ、いまさら気にしてどうするのかとは思ったが、伊織は一応うなずいてみせた。遥の髪をなでて、軽くキスをする。
「暇だったら見に行こうか」
「来なくていいよ!」
 笑いながら応じて、遥がさらにキスを仕掛ける。伊織はその身体に手を回しかけて、ふと動きを止めた。
「おまえ、制服着たまま寝るなって言っただろう」
「え、脱いでなかった? ああ……まあクリーニングに出せばいいや」
「明日着てくんだろうが、バカ。脱げよ」
 どうせ脱がすのなら別に今じゃなくてもいいはずだが、伊織にはそれとこれとは別問題だったらしい。身体を起こすついでに、遥を抱き起こして、ブレザーを脱がせる。
 おとなしく従っていた遥だが、「下も」と言われて嫌そうに顔をしかめた。
「今?」
「今」
 問答無用な口調に、従わないと痛い目を見るとでも思ったのか、遥はそのままズボンまで脱いだ。
「もう。着替えてく……っ」
 そして、部屋着を着てこようと立ち上がりかけたのだが、伊織の腕があっさりと捕まえてしまう。
 脱がせてから食う計画だったのかと、遥は妙な納得をした。
「なぁ、寒いって」
「すぐ気にならなくなるだろ」
「やっ、嫌だってば、なあ」
 抵抗は口先だけで、ソファに押し付けた身体は従順だった。シャツの下からわき腹をなで上げると、首をそらしてあえぐ。やはり誘っているとしか思えないそこに唇を寄せ、シャツのボタンをはずしながら舌でなぞっていく。
「遥の匂いがする」
「汗臭いだけだろ? シャワー浴びてないから……だめだって」
 片方の胸の尖りを舌先で転がすと、遥は甘い息を漏らしながらも、伊織の髪をひっぱった。
「な、やだ」
「どうして」
「だって……んっ」
 言葉とは裏腹に、もうその気になりかけている遥の股間のものをすっと撫でる。
「こっちはその気なのに?」
「伊織がやらしい触り方するからじゃん。なぁ……」
 胸をあえがせて、遥は物言いたげに伊織を見上げた。

 と。
 ぐぐぅ〜、と絶妙のタイミングで腹の鳴るスゴイ音が。

 怪しい沈黙が一瞬。
「……色気より食い気かよ、おまえは」
「仕方ないだろ、昼から何も食べてないんだから!」
 狙ったわけではないらしく(当たり前か)遥は真っ赤になって言い返した。あいにく部屋が暗くて、伊織には照れた様子しか伝わらなかったが。
「俺だって昼から今まで何も食ってないぞ」
「あんたと違って俺は育ち盛りなの」
「おまえの身長は、もうそれ以上伸びないと思うけどな」
「嫌味なんだよ、わざわざ言うな。なぁ、なんか作ってよ」
 すっかり色っぽい空気が霧散して、伊織は遥を腕の中から解放した。
「どこか食いに行かないのか」
「やだ、伊織の作ったのがいい。それに、そのほうが早いだろ?」
「まあ、それはそうだけどな。……ん?」
 半分以上はだけた制服のシャツにトランクスと言う格好で、ソファの上に座った遥が、ちょっと首をかしげるようにして伊織を見ていた。
「あとで、な?」
 妙に遠慮がちに、でも艶めいた表情で、問い掛ける。
 今を逃したら抱いてもらえないとでも思ったのか、ほとんど聞いた覚えのない遥からの誘いに、伊織は微笑した。
「まあ、餌付けしたあとで勘弁してやるさ。ところで受験生、勉強はどうしたんだ?」
「……それを言うからあんたは嫌味なんだよ!」
 遥はソファの背を勢いよく飛び越えて、向こう側に着地する。いつか床で滑ってこけるに違いないと伊織は思っているのだが、今のところ成功率は100%だ。
 脱がされたあと、適当に置いたままだった制服を回収するのも忘れない。
「和食、和食お願いねー。ちゃんと飯炊いといたからな」
「俺はメシ屋か」
 とっとと逃げていく遥の背中に、伊織は苦笑まじりに毒づくと、部屋の明かりをつけるために立ち上がった。

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