「あ、こんなところに生霊が」
ぼそりとつぶやいて、人影を無視して通り過ぎようとすると、暗い場所に立っていた男の手が伸びて、袖をつかまれた。これだから、ひらひらした神官の衣装は好きになれない。
「ちゃんと生身だぞ」
「おや。実体のある幽霊でしたか」
「幽霊に実体があるか」
「ありますよ、見たことありません?」
にっこり返して、袖をとらえている指を一本ずつはずしていくと、今度は逆の手で手首を捕まえられた。
「拗ねてるのか」
「呆れているんです」
「もう二度と来ないとでも思った?」
「どうでもいいことでしょう」
「よくない」
「何をお聞きになりたいか存じませんが、こんな誰でも通るような廊下で、わたしにどうしろと?」
僕の私室に勝手にもぐりこんでいたことも、一度や二度ではない彼が、今夜この場所にいたのは偶然ではない。彼がここへ来ずにいた3ヶ月の間に、僕が引越ししたせいだ。
寮の入り口に近い廊下で身を潜めて待ち伏せしていたのは、お忍びで来た手前、その辺の人に僕の部屋がどこか尋ねるのは気が引けたからだろう。迷惑するのは僕のほうだと理解してくれているなら有難い。
「それは部屋に誘ってくれているのかな」
「お話がおありでしたら、昼間に堂々とどうぞ。おかげさまで少しだけ昇進しましたから、面と向かって応対しても苦情は言われないと思いますよ」
「嫌味か」
「嫌味はお嫌いで?」
「恋人に嫌味を言われたい男がいるとは思いたくないな」
僕はため息をついた。こんなところで口論していても仕方ないのはわかっているけれど、積極的に部屋へ通したい気分でもなかった。
本当は、拗ねていじけているだけ。そんなことは、僕自身もわかっているし、彼もわかっているから、こうしてここに立っているのだろうけど。
「リセル?」
ことさら優しく呼ばれて、僕は頭をかいた。
「もう。だから僕はあなたが嫌いなんだ」
部屋に入って、すぐに抱きしめてこようとする彼の腕をすり抜けて、僕は窓のカーテンをひいた。
耳目はどこにあるか知れない。彼との関係は、もはや周知のことではあったけれど、堂々と披露するようなことでもないから。
「お妃様はお元気?」
「聞いてどうするんだよ」
「こんな夫を持たされて、気苦労で倒れておられないかと」
「その嫌味の連発は、いったいいつまで続くんだ?」
「あなたがちょっとは反省するまで」
何を反省してもらいたいのか、自分でもイマイチわからない。
僕を3ヶ月もほったらかしにしたことか。
妻のある身で、夜中にセラム神殿くんだりまで「恋人」に会いに来ていることなのか。
彼はため息をつき、部屋の真ん中で僕をつかまえ、一緒に長椅子に腰掛けさせられた。
肩に腕を回されて、身体が密着したそれだけで、彼の触れたところだとか、頬だとか、いろんなところが熱くなるのがとても悔しいと思う。
「愛しているのはリセルだけだ」
哀しい言葉だ。彼と僕の愛には、何の実もない。
愛さえあれば、何もいらないとは言うけれど、愛がなくなれば、僕たちには何も残らない。
「リセル。正直、リセル不足なんだよ、ここ最近。だからこっちに向いてくれ」
頬に唇を寄せて、こんなことを言うなんて、だいたい彼はずるいのだ。
「いらっしゃらなかったのはあなたですよ。わたしからあなたに会いにいけるわけがないんだから」
「リセル、敬語に戻ってるし……。寂しかった?」
この人相手に、敬語以外の言い回しも使えるようになったのは、知り合ってどれほど経ってからだろう。僕はそんな真面目なほうじゃないけれど、皇太子だとか皇帝だとかいう言葉には、人並みに弱かった。
相手はこんな、尊敬に値するのかどうか訝しい男だけど。
「寂しいって……当たり前でしょ。会えないだけでも、こっちはそれなりにへこんでるっていうのに、陛下は新妻にでれでれしてるらしいとか、若くて美人のお姫様をお嫁にもらって、もうさすがにこっちには来ないんじゃないかとか……あいつら、僕にわざと聞こえるように言いやがって……」
「リセル、素に戻りすぎてるよ。そんな馬鹿らしい噂信じたの? 彼女よりリセルのほうがずっと綺麗なのに」
僕を綺麗だと言った人は、後にも先にも彼一人きりだ。実際僕が見た限り、つい先日嫁がれたお妃様は、僕なんかよりずっと綺麗な人だった。
「お妃様はお妃様でしょ。それだけで僕は思いっきり負けてる」
「そうかな」
「女の人だし」
「まあね」
「将来、お世継ぎを産まれるんでしょうし」
「まあ、それが仕事だからね」
「あなた、僕が妬かないとでも思ってるの?」
「妬いてくれるの? 嬉しいなあ」
普段から飄々として、ときにつかみ所のない皇帝陛下ではあるんだけど、この応答はさすがに力が抜けた。
どう返していいものやら、僕が頭を抱えていると、彼は僕の頭を撫でて言った。
「俺は、リセルが神殿の人間でよかったと思っているよ。いくら俺が宮殿抜けを趣味にしているからといって、もしリセルがただの市民だったなら、家まで通ったりはできなかっただろう。
いくら俺が歴代皇帝の中でも変人中の変人で通っているからといって、もしもリセルが普通の男だったなら、わが国の常識ではそばに置くこともできなかっただろう。
もしもリセルが女の子だったら、どんなに恋焦がれたとしても、俺はリセルと恋人になろうとなんてしなかっただろう……どれほどの苦労をかけるか、知れたものではないからね。でも、リセルはリセルだった」
「うん」
「運命を感じているんだとか言ったら、馬鹿にされるかな」
「ちょっと」
「うわ、そんなところで率直になるなよ。もっと別のところで素直になってくれ」
笑いながら、彼は僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。
意地のように短髪を貫いたままの、まるでセラムの神官らしくないと大評判の髪型を、なぜか彼は気に入ってくれていた。
「諦めるべきなのかなって、ずっと考えてたんだ」
セラム神殿では、恋愛することそのものは容認されている。けれど、一度神に仕えた神官が家族を持つことは禁止されていて、僕たちは皆、誰と恋をしようと結婚できない身の上だった。
その残酷な決まり事がなくとも、僕と彼の場合は結婚しようがなかった。最初から身分違いだし、何より僕は男だ。『巫女の神殿』などという場所にいると、たびたび自分で忘れそうになるけれど。
「でも、無理だよ。会いたいし、話したいし、そばにいれば触れ合いたい……僕はそんなに我慢強くない」
「知ってる。結構すぐキレるもんな」
「ちゃかさないでよ」
「俺だって一緒だよ。リセルに迷惑なのはわかっていても、やめる気にはなれない」
「うん……」
「だから、これからもよろしくな」
彼はそう言って僕の顔を覗き込むと、軽く僕の唇に触れた。
「はい、は?」
「………はい」
逆らったところで、こればっかりはどうしようもない。
浮気だとか愛人だとか、ここ最近聞かされた単語が頭を掠めたけれど、気にしてもしょうがないので、僕はとりあえず目の前の厚かましそうな唇にキスを返しておいた。