5
光の芸術、とでも言ったほうがいいかもしれない。
顔を洗って服を着替えて、目深に帽子をかぶって王宮を飛び出そうとした王が目にしたものは、アルバレイズを取り囲む光の渦だった。
何も知らぬ者が見たなら、その山に神が降臨したのかと錯覚したことだろう。
曇りがちで、少し日の翳った天候は、その聖なる光を際立たせるのに役立っていた。夜であれば、どんなにか美しく妖しく見えることだろうと想像しつつ、レイ・セリュウムは立ち止まって見惚れる人々に混じって、しばしアルバレイズを眺めていた。
それから、レイ・セリュウムは歩き出した。徒歩でも、小一時間もあればたどりつける、アルバレイズの頂上。ネイゼルが今魔術を披露している場へと向かって。
義務は義務として、そつなくこなしたのはいいとして、どうにもご機嫌麗しくないらしい若い師匠にクーランが恐る恐る声をかけたのは、儀式が終わって少ししてからのことだった。
避けられない挨拶やら何やらが終わり、私室へ戻ってきた直後である。
「あの、ネイゼルさま。綺麗なご婦人がいらしてるんですけれど」
「は?」
ものすごく感じ悪く問い返されて、クーランが言葉に詰まる。
「あの、いえ、名を名乗ってくださらなくて。いや、あのですね……」
「何なんだ、一体」
「さっき、ディスタさまと話しておられましたし……」
「それで、おまえは彼女がどこの誰だか知らないというんだな。わかった、お通ししろ」
しかし、言っている途中で、その人はもう、部屋に入ってきていた。
屋内だと言うのに、帽子を目深にかぶったまま、クーランに対して「ありがとう」と声をかけて。
その声で、相手が誰だかわかってしまったネイゼルは、謂れのない怒りに声が震えそうになるのを自制して、低く訊ねた。
「……何をやっているんですか、あなたは」
「何って、お忍び」
クーランが出て行ったのを確かめて、その人が帽子を脱ぐ。まとめて上げていた髪がほどけて、肩をするりと滑り落ちた。
臙脂色の長いドレスに身を包んだ、その細身の美女は、モリア国王、レイ・セリュウムに他ならなかった。
「わりと似合うだろう?」
「……あなたが美人なのは存じ上げていますよ」
押し殺したようなネイゼルの口調に、楽しげだったレイ・セリュウムの瞳が曇る。
その様子を見て、ネイゼルは自分が謝るつもりだったことを思い出した。しかし、口を開こうとしたネイゼルを、レイ・セリュウムはやんわりと遮った。
「昨日は、アルバレイズに無理な頼みをしてしまったと思っている。おまえが言ったことは正論だ。無論、お前の言いようにはむかっ腹が立ったけれど……お前は間違っていないよ」
「ですが……」
「いいんだ。そんな顔をしてもらいに来たわけじゃない」
ネイゼルが顔をしかめて、自分はどんな顔をしたのだろうと思っていると、レイ・セリュウムがふわりと微笑んだ。
「でもまあ、詫びの代わりにといってはなんだが、話を聞いてもらえないかなと思って」
「はい?」
「ほら、アルバレイズとして、昨日の話は受け入れがたいというのだろ。ならば、ネイゼル個人にお願いした場合、どうなんだろうと思ってね。やはり、それもお断り?」
目の前で微笑む、女装の国王を見て、ネイゼルは小悪魔だと内心でつぶやいた。たくらみなど、寸分も感じさせない無邪気な顔をして、何を言い出すのかと。
そして、思い当たる。
「誰ですか、あなたにそんな入れ知恵をしたのは」
「あ、ばれた? さっき、ディスタがそう言えって」
ネイゼルはがっくりとうなだれた。ディスタなら、言う。というより、彼女か、ネイゼルの師匠である城主のシグマ老以外に、誰がその作戦を思いつくだろうか。
苦笑を浮かべて、ネイゼルは静かに答えた。悩むまでもなかったからだ。
「構いませんよ、私は。あなたがそう望むのならば、騎竜部隊の対処は、引き受けましょう」
そう。魔術師個人が仕事としてモリアの味方につくことに、とりたてて制約はないのだ。ただ、それだけの仕事をなせる魔術師となると、やはり城主佐に頼む以外にないというだけのことで。
「やった!」
満面の笑みで喜ぶレイ・セリュウムに、ネイゼルも口元を綻ばせる。
「ですが、私としても、ただで引き受けるわけには参りませんので」
「え、ああ。何が望みだ?」
無邪気に返すレイ・セリュウムを見ながら、ネイゼルは、自分がまだ怒っていることを、静かに確かめた。そうだ、自分は今とても腹がたっている。この人のせいで。
「……あの、ネイゼル?」
ネイゼルの表情が急に険しくなったことで、レイ・セリュウムが不安げな顔をする。
時折考えの足らない奴だと苦笑し、ネイゼルはぬっと美貌の王に顔を近づけた。
「口づけを」
「は?」
レイ・セリュウムが言葉の意味を理解していないうちに、ネイゼルはその唇をさらった。
混乱して、何がなにやらわかっていなかったのだろう、しばし無抵抗だったレイ・セリュウムは、ぐいと腰を抱き寄せられるに到って、身をよじって抵抗を示した。
「報酬を、くれるのでしょう?」
耳元で低く教えてやると、不安げに見つめられる。少しだけ視線の低い、けれどさほど小柄というわけでもないレイ・セリュウムをじっと見つめ返し、ネイゼルは安心させるように笑ってみせた。
「私の望みを、叶えてくれるのでしょう?」
言いたい意味が、よく伝わるように。
目を見開いたレイ・セリュウムは、ふっと顔を赤くしてうつむいた。
ネイゼルが、そのあごをすくいあげるようにして、また口づける。
優しくする気などなかった。
その柔らかい唇をむさぼり、口内に舌をねじ込んで、食らい尽くそうとするかのように中まで貪って。
明らかに「初心者」のレイ・セリュウムの息があがり、身体の力が抜けてきたのを確かめて、ネイゼルはもう一度唇を離した。
壁に細身の身体を押し付けて、身体を密着させる。
「あ、ネイゼル?」
潤んだ瞳で見つめられ、ネイゼルは陶酔を覚えながら、腕の中の細身の身体をそっと撫でた。
驚いてはいても、その身体が嫌がっていないのは、もうわかっていた。
最初から、レイ・セリュウムの気持ちは、わかっている。
ネイゼルはそっと、ついばむようなキスをして、間近にささやいた。
「嫁になってくれるんでしょう?」
「……!! お、覚えて……!?」
「馬鹿、忘れられますか。それとも、あなたは忘れていた?」
勢いよく首を振って否定するレイ・セリュウムに、ネイゼルは微笑む。
「私が何のために、必死で努力して城主佐にまでなったと思ってるんですか?」
勘の良い青年の頬が、さらに真っ赤に染め上げられていく。耳まで赤くしてうつむくレイ・セリュウムの耳元に、ネイゼルはささやきかけた。
「こんな格好で、私の部屋にひとりでやってきて。無事に帰してもらえると思ったら、大間違いですよ」
それは、ネイゼルにとっても、かなり古い記憶だ。
ネイゼルの父親は、とある城の管理を任せられた役人で、母親はその城の主人の話し相手になっていた。
その主人……先王の妹であった、ルシア・フェルティナ王女は、未婚だったが、2人の子の母親だった。王族として、さほど珍しいことでもなかったのだが、あまり良いことでもなく、王女は寂しい暮らしを余儀なくされていたのだ。
その王女の上の子が、レイ・セリュウムだった。
出会った当時、3歳。
遊び相手を任ぜられたネイゼルは、お人形のように愛らしいその子供をすぐに気に入り、一日中引っ張りまわしては、兄貴風を吹かせていた。ネイゼル自身は末っ子だったから、弟が出来たようで嬉しかったというのもある。素直だが、やんちゃではしっこいレイ・セリュウムは、子供の目から見ても本当に可愛かった。
たちまち相手のことを気に入ったのは、ネイゼルだけではない。出会って一月もたたない頃から、レイ・セリュウムはネイゼルに夢中になっていた。求婚してくるくらいに。
「大きくなったら、セリュウのお婿さんになってくれる?」
「あのね、ぼく、ネイゼルのお嫁さんになるの」
無邪気な幼子の求愛は、それから3年ほど続いた。3年と少しの後、ルシア・フェルティナ王女が結婚することになり、子供ともども引っ越していくまで。
そして、それから15年近く、2人が顔をあわせることはまったくなかったのだ。
それでも、ネイゼルはレイ・セリュウムを忘れなかったし、レイ・セリュウムもネイゼルのことを忘れはしなかった。
「どうして、来てくれなかったんです?」
すっかり力が抜けて、ネイゼルの腕の中におさまった人に、責めるような言い方をしてしまったのは、やはり晴れ舞台を見て欲しかった気持ちが強かったせいだろう。
レイ・セリュウムは、ごめん、と小さく言って、頬をネイゼルの首筋にこすりつけるように顔を埋めた。
「……もしかして、泣いた?」
「え!?」
「目が、少し充血している気がしたんですけど」
は、と顔を上げたレイ・セリュウムを捕まえて、その目を覗き込む。確かに、レイ・セリュウムの目には、寝不足か泣いたあとか知れない充血が残っていた。
「嘘だ、ディスタが……」
「ディスタが?」
「いや、なんでも」
「なんでもなくはないでしょう?」
「…………」
大人になって再会してから、こんなふうに会話をしたことさえなかったのに、それでも気づけば惹かれていた。こんなふうに親しく話をするのは、15年ぶりなのに、2人には少しの違和感もなく。
レイ・セリュウムは、観念したようにため息をついた。
「……おまえが、あんな怖い顔で話をするから、わかっていても……おまえは正しいことを言っているだけだって、わかっていても、辛かったんだ。馬鹿だろう? あんな我侭を言って、おまえに嫌われたかと思うと、勝手に涙が出て止まらなくって……今朝起きたら、到底公の場に出られるような顔じゃなかったんだよ。それで、さっきディスタに馬鹿にされた」
ネイゼルが思わず微笑むと、レイ・セリュウムは顔を赤くして睨みつけてきた。
「笑うな」
「笑ってないですよ」
「笑ってるじゃないか」
「いえ、ただ、可愛いなあと思って。変わらないですね」
「おまえこそ。仏頂面で嫌味で、意地悪だ」
「お嫌いですか?」
つん、と顔をそむけたレイ・セリュウムの頬に、軽く口づける。
「それで、ディスタに直してもらったんですか、目を」
「そう、まだちょっと腫れていたから。……ネイゼル?」
「はい」
「本当に、頼ってしまっていいんだな」
レイ・セリュウムが表情を引き締めて訊ねると、ネイゼルは微笑んで、今度はその鼻の頭に口づけた。
「もちろんですよ、セリュウム。あなたの頼みを断って、あなたに嫌われることほど、私にとって怖いことはない」
「本当かな」
思わず呟いたレイ・セリュウムの唇を、ネイゼルは心外だと言わんばかりの仕草で奪った。