盛大な拍手の中、舞台の中央に立つ燕尾服の青年が優雅に一礼する。
その手にはヴァイオリン。
昨年から、彼のパトロンであるイギリスの貴婦人のつてで借り受けているというグァルネリウス――ひょっとすると ウン億するかもというブツだ。
僕は、融通してもらった特上の席から、惜しみない拍手を彼に送っていた。

「貴公子、堂々の日本デビュー」
「***国際コンクール第1位の気鋭が送る、華麗なるベートーヴェン」

今日の演奏会のチラシに踊っていた微妙な煽り文句も、まあ認めてやってもいいか、と思うくらい、音楽の出来からステージ上の立ち姿から、何から何まで素晴らしかった。
決して難曲とは言えないベートーヴェンのヴァイオリンコンチェルト。
ミーハーの客でなければ、きっと聞いたことがあるだろう、定番中の定番。
そんな曲を、華やかに、艶やかに、美しく、決して「これが俺様だ」って要素を抜かすことなく弾き切れる演奏者は、そうそういないと思う。
ちょっと垂れ目気味で優男な印象の彼が、険しい演奏者の表情から、にこやかな笑顔に変わった瞬間、僕は不覚にもじわっと来そうになった。
今こうして、拍手に応えて笑顔を振りまき、指揮者とがっちりと握手を交わすその様子さえ、さまになっている……と思うのは、別に僕だけじゃないはずだ。
たぶんね。
ファン歴10年目の僕が言うんだから、あんまり信憑性はないかもしれない。
僕は、やっぱり来栖亮太は最高だという再確認を終えて、アンコールを求める拍手の中、席を立った。 来栖がアンコールに応えるとしても、小品を無伴奏でさらりと弾く程度だろうし、それならいつだって聴かせてもらえるから。


そのすぐ後。
僕は一旦ホールを出て、裏手の楽屋口にまわり、そちらから入れてもらった。
来栖の関係者として先に一度入れてもらっていたから、入るのはすぐだった。
楽屋の前にたどり着いたのは、プログラムの中間の休憩がちょうど終わる頃だった。 通路の途中の演奏者ラウンジにある、舞台上を映したテレビに、オーケストラのメンバーがぞろぞろと舞台へ戻っている様子が映し出されていた。
感動を噛み締めて歩いてたから気づかなかったけど、ホールの中から楽屋までって、結構遠かったらしい。 オケのメンバーと鉢合わせにならなくてよかった、と思いつつ、僕はそのまま来栖の楽屋へ向かった。
ドアをノックすると、
「どうぞ〜」
という気の抜けたような応え。なんとなく可笑しくなって、
「来栖!」
ばたんと扉をあけながら、怒鳴りかけると、満面の笑顔が出迎えてくれた。
「アキ!! どーよ、俺様の華麗なるベートーヴェンの調べは」
「やめろ、クサ過ぎ、華麗なベートーヴェンってなんだよ、一体」
偉そうに言うので、言い返してやったら、はっはっはと笑い飛ばされた。
「わかってへんなあ。ベタなネタで勝負する貴公子さまに、ほかに煽り文句なんか思いつくか?」
「珠玉の、とか、いろいろあるよなー。魂の……」
「考えんでええっつーの」
お約束でばこっとはたかれて、僕は笑い返してから、勝手に椅子を一つ借りて座った。
室内はすでに花束であふれていて、ぷんと甘い香りが立ち込めている。来栖は燕尾を脱いで、蝶ネクタイを取り、シャツのボタンをひとつはずしただけの格好。 たぶん、さっきまで来客の応対だったのだろう。
まだ演奏会自体が終わっていないから、それほど大攻撃を受けているわけじゃないかもしれないけど。
そう考えている間に、新たなノックの音。
「どうぞ〜」
さっきと同じ、間延びした調子で来栖が応じる。
「すいませーん、来栖くん、お客さ……」
入ってきかけた人が、僕に気づいて停止した。来栖の所属する音楽事務所のマネージャー、木津さんだ。
彼女はにこっと僕に笑いかけてくれた。どうやら、覚えてもらえていたらしい。
「矢田くん、来てたんだ」
「はい、お邪魔してます。あ、出た方がいいですか?」
「おまえは気ぃ遣わんでええの。誰ですか?」
「北浜先生の娘さんたちが。シンフォニーを聴いてから来たらいいのにね。そういえば矢田くんも。ブラームス聴かなくていいの?」
今日のプログラムは、1曲目にヴァイオリン協奏曲、休憩を挟んで2曲目にブラームスの交響曲というもの。普通なら、当然交響曲も聴いてから楽屋に押しかけるものだろうけど。
「あ、いや、勿体ないかとは思ったんですけど、早く来栖に感想伝えたくって」
「なんだぁ? 嬉しいこと言うてくれるやんか。で、どーだったのよ」
とか言いながら、来栖が首にまとわりついてくる。くねくねした動きで肩にあごを乗せられて、背筋にぞわっと来た。
「ふやけた馬鹿に聞かせる感想なんかあるか!」
頭をはたいて、ひっぺがす。まったく、他人の前でなんてことをするんだ、こいつは。
「なーに赤なってんの、アキ」
のんびり突っ込んでくれる確信犯が、心底恨めしい。
「木津さん、歌音ちゃんら入れてくれる? あんまり待たしたら悪いし」
次の瞬間、何でもなかったように木津さんに話しかけるところも。


北浜先生というのは、僕も習ったことのあるヴァイオリンの先生で、この演奏会の主催者である関東交響楽団のコンサートマスターだ。 僕は、先生に習って2年でプロになることに見切りをつけ、今は普通の大学に通っているけれど、来栖は音楽家としてのステップを登り続け、今や将来有望なヴァイオリニストとして名を知られるまでになった。
当然、長年に渡って面倒を見続けてきた北浜先生にとっても、来栖の日本デビューは嬉しいものだろう。 今日もコンサートマスターを務めている先生が、演奏を終えた来栖と舞台で握手を交わしたときの、誇らしげな顔が目に浮かんだ。
「りょーちゃん、お疲れさま〜!!」
木津さんが部屋を出てすぐ、甲高い声を上げて、花束が部屋に飛び込んできた。
「おー、よう来たな!」
来栖が、花束ごと、その少女を抱え上げた。小学校一年生くらいだろうか。心底、来栖が好きなのだろう、顔中笑顔にして、けらけら笑っている。
「日本デビューおめでとうございます! すっごく感動しました!」
うしろからついてきた大きい方の少女が、台詞を読むような口調でそう告げた。でもこちらも、顔は嬉しそうだ。 ただ、小学校高学年らしい年頃からして、見知らぬ僕のいる前で、素直に行動できないのだろう。
ああ、タラシめ、と僕は思う。来栖は、なぜだかとっても子供に受けがいいのだ。
関西を離れて何年経っても抜けない関西弁といい、どこか悪戯っ子のような、妙に含みのある笑顔といい、二枚目と言うには胡散臭いムードの男なのに。
木津さんじゃないとは思うけど、音楽事務所も言うに事欠いて「貴公子」はないだろ。いや、あれは音楽雑誌が言い出したのか。
僕には、やんちゃ坊主にしか見えないけど……ヴァイオリンを手にすると人が変わるのは事実だ。
垂れ気味の目が(本人気にしているから、ことあるごとに言ってやるんだけど)すっと厳しくなって、大人の表情になる。 そして、とても艶やかな、華のある音色を奏でるものだから、僕は彼と一緒に北浜先生のところで習っていたころ、顔の表情を変えたら音色も変わるんじゃないかとか、本気で試してみたことがある。
ま、表情を変えても中身が変わらないんじゃ一緒だったわけだけど。
さっきまで大人の顔で舞台の中央に立っていた男は、今はまるきりガキの顔で、北浜妹のほうの頬をぷにぷに突いたりしながら、しばらく女の子達と遊んでいた。
どっちかっていうと子供が苦手、というか子供との付き合い方がわからない僕は、そんな来栖の様子をひたすら観察していた。



「アキ? もう寝たんか?」
やわらかい声が頭上から降ってきて、僕は目を覚ました。
「つれないなあ。起きとってって言うたやん?」
「起こしといて文句言うなよ。お帰り」
「ただいま。あー疲れたわ」
そう言いつつ、来栖はもうシャワーを浴びたようで、ホテルの浴衣を着ていた。バスタオルで頭をがしがし拭きながら、僕に背を向ける格好でベッドに腰掛ける。
ベッドサイドの時計を確認すると、午前2時。
「何時に帰ったの」
「ん、30分くらい前」
「そう。お疲れ様」
「いえいえ。アキがいるから、早く帰りたかってんけどな。そうも言うてられんし」
付き合いで飲みに行くというので、僕は来栖とホールで別れたのだった。来栖は一緒にくればいいのに、と言ったけれど、はっきり言って、いくらタダ酒でもそればかりは遠慮させていただいた。 北浜先生はともかくとして、今回の指揮者の先生に、音楽事務所の関係の人、その他もろもろの関係者……そんなところに『来栖の友達です』と顔を出すのは、あまりに場違いというかなんと言うか。
来栖くらい社交的なら、もしかすると得がたい体験とやらができるのだろうけど、僕にはそんな場所に飛び込む度胸など1ミクロンも備わっていない。 僕の中で、ヴァイオリンをやめた理由の中には、舞台度胸がないから、って項目も入れてあるくらいなのだから。
僕は身体を起こして、来栖の背中にそっと寄り添った。
「本気でダブル取ったのかと思ったよ」
「なに、ツインでがっかりした?」
「馬鹿」
デビュー記念だ、今夜はゴージャスなホテルのダブルベッドで愛を確かめ合おうぜ、とか果てしなく馬鹿なことを言っていたので、本気で男同士でダブルをとったのかと心配していたのだが、渡されたカードキーで開けた部屋は、なんていうんだろう。ジュニアスイートくらいだろうか。とりあえずどでかいベッドが部屋にひとつということはなかった。
振り向いた来栖が、僕の身体を抱き寄せる。
「アキ……」
重なる唇に、どれくらいぶりだろうと不毛なことを思った。
たしか、3ヶ月、いや4ヶ月ぶり? 実家が金持ちなのをいいことに、前からわりと頻繁に日本へ帰ってはくるけれど、こいつはもうずっとヨーロッパへ留学中だ。
どうしてこんな恒常的な遠距離恋愛をはじめる気になったんだっけか、とときどき思うけれど、今日の演奏――いやもう日付が変わったから昨日か――を聴いたら、そんな疑問は吹っ飛んだ。
僕は、どうしようもなく、ヴァイオリニスト来栖亮太に惚れている。こいつがフランスでガールフレンドを作っていようと、 どこぞの先生の3歳と6歳の娘とラブラブな写真をとりまくってようと――こいつ、本気でロリコン入ってるんじゃないかって僕はたまに疑ってるんだけど――、年に二十日も会えればいいとこだろうと。
それでも、僕は来栖の奏でる音と、来栖の音を紡ぎ出す来栖本体がたまらなく好きだ。
「来栖、ん、今日、カッコよかった」
ベッドに押し倒されて、顔の形を確かめるようにまんべんなく口付けされながら、僕は思ったことを言った。
「惚れ直した?」
「ん。すっごく」
「おまえって、ほんっっまに罪な男!」
僕が本心のままにそう告げると、なぜだか来栖はそう叫んで、ぎゅっと僕を抱きしめた。
「?」
「あー、もう、ドイツにアキを持って帰りたいわ!」
「……来栖、あと2週間こっちにいるんだよなぁ?」
「あ、アキ。俺が帰るん考えたら悲しーなってきた?」
僕がちょっとムッとして言ってやると、笑いながら、来栖はごろんと横になって、僕の髪を撫でた。
「心配せんでも、10日もしたら、おまえ早く帰れ!って言い出すやん、アキ。あー、毎日素直なアキやったらええのに! 言うても毎日コンサートはできんしなあ。アキの前でひとりリサイタルしてたら練習にならんし……」
僕は、黙って来栖の額に軽くでこぴんを食らわせた。
ひでえ、とか言いつつ、来栖はまだご機嫌に笑っている。僕も、いつのまにかつられて微笑んでいた。
「あとちょっとや。なあ、アキ。この夏過ぎたら、嫌って言うほどおまえのそばにいてやるから」
「うん」
音楽院の課程を一応終え、留学の成果もあがった来栖は、秋には活動の拠点を日本に移す予定にしている。 無論、僕はそれを知っていたから、あんまり来栖の言葉の意味も考えずに頷いた。
「だから、俺がこっち帰ってきたら、一緒に住もうな」
「?」
「アキ、『うん』は?」
「一緒に住むの?」
「そう」
「僕と来栖が?」
「ほかに誰が?」
「…………」
僕は何も返事しなかったのだけど、僕の顔を見た来栖は、嬉しそうに笑って僕にキスした。
「好きやで、アキ」
優しい、しなやかな指が僕に触れて、僕は夢見心地に目を閉じる。
美しい音楽を奏でる指も腕も、全部、このときばかりは僕のものだ。
「あー、アキ、やっぱ寝るんか……アキぃ、アキ……彰紀くーん…………。あー、なんでこう可愛いかなあ。可愛すぎやで、ほんま。 俺が帰ってくるまでに、悪い男に引っかかったらあかんでー。あ、もちろん女もな。アキ、綺麗な顔してんのに、ちーっとも自覚ないねんもんな。あーでも、そこがアキのええとこでもあるわけやけど……」
いつのまにか眠ってしまった僕の横で、来栖がずっとなにやらぶつぶつ言い続けていたけれど、僕は気持ち良い音楽でも聴いているような気分で、そのまま深い眠りへ落ちていった。


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