王子様と飼い犬


「あろーーっ!」
 という大声を、クラインは確かに聞いた気がした。
 と、次の瞬間に、なにやら肌色っぽい巨大なものが視界に入って、クラインの目の前にいるアリオスト王子に激突した。
 衝撃に、鍛え上げた長身の主が少しよろめく。
「おーまーえーはーーーっ! いつもいつも俺が言い聞かせてる内容をもう忘れたのか、この馬鹿犬!」
 沈着冷静で知られる王子が声を荒げているさまを見ながら、部下であるクラインは目を点にしていた。
 王子に激突して、今はひっしと抱きついている大きなものは、全裸の青年であったからだ。


 アリオスト王子は、レグス王国の現国王ルアートの同母弟であり、その右腕として王軍を任される優秀な武人でもある。
 その隙のない端正な容貌と、落ち着いた物腰、言動の端々に見える知的で洗練された優雅さから、レグス国内はもとより、国外の貴婦人からも注目を浴びる貴公子なのだが、ここ数年というもの、浮いた噂から遠ざかってしまっている。
 王子の直属の部下となって数年経つクラインも、王子がどこかの女性と付き合っているらしい気配を感じたことは一度もなかったし、それらしい噂を聞いたこともなかった。
 それが、用事があって王子が王宮外に構えている邸宅までついてきてみれば。


「まったく。少しは反省しろ!」
 王子は全裸の青年の、まぶしいほどに美しい銀白色の髪に覆われた頭を、ごつんと一発殴った。
「うぃ〜〜」
 伸びやかな色白の腕をあげて頭を抱え、情けない声をあげる青年の顔には、見覚えがあった。王子が可愛がっている近習で、確か名前はフィーエだったか。幼さの残るきれいな顔立ちの主で、王子の愛人だとしても不思議はないのだが、なんだって素っ裸なのか………とクラインが考えていると、王子は地面を指差し、軍を動かすときと同じくらいの迫力の声でひとこと言った。

「お座り」

 その指図にクラインがぽかんとしている間に、青年の白い身体が動いた。
 言われたとおり、一歩下がって「お座り」を……したそれは、すでに銀髪の青年ではなかった。
 そこに座っているのは、どう見たって犬だ。かなり大きな白い犬。凛とした美しい体つきと、いかにも賢そうな顔つきの、それはそれは美しい犬だった。
「え……!?」
 すでに驚きすぎて口があんぐり開いたままのクラインをよそに、王子は犬の前に身を屈めた。
「ここがどこかわかってるのか? うちの玄関前だぞ。こんなところへのこのこ出てきて、いたのがクラインだったからいいようなものを、口の軽い人間だってみろ。私が変態扱いされるんだ……って言ってもわからんか。とにかく、人型を取るなら服を着て来いといつも言っているだろうが。いつになったら学習するんだ。わかったのか? 今度したら部屋に入れてやらないぞ」
 犬の口をつかんでぐいぐい引っ張って、普通に犬を叱りつけるような格好で、言って聞かせている。
 ふさふさした銀白色の毛並みのその犬は、大きな身体を縮めて上目遣いで、全身で「ごめんなさい」を表現している。
 それだけ見ていたら、ただの犬と飼い主にしか見えないのだが。
 ひととおり叱り終わったらしく、犬の頭をぐりぐりと撫でて身体を起こした王子に、クラインは恐る恐る尋ねた。
「あの……殿下?」
 振り返った王子は、今クラインの存在を思い出したという様子で、説明が面倒なのか嫌なのか、なんともいえない微妙な顔をした。
「ああ。おまえ、こっちには会っていないのか……フィーエには会ったことあるんだな」
「ええ、あの、何度か顔を合わせたことはございますが」
「フィーエだ」
 王子は、まだ少々しょげた様子で王子の顔色をうかがっている犬を指して、少々ぞんざいにそう言った。
「なんでも、神代にどこかの神に飼われていたという神狼の末裔だとかで、人に化ける。普通の犬よりは賢いが、まあ、見てのとおり馬鹿犬だ」
「は、はぁ……」
「言うなよ」
「も、もちろんです。それに、誰も信じませんよ。私は目がおかしくなったかと思いました」
「そうか。ああ、フィーエのおかげですっかり話がそれたな。昨日の書類だったか。フィーエ、私の部屋まで行って、昨夜お前が寝台の下に隠そうとした書類を持ってきなさい。ああ、服を着てくるのも忘れずに」
 犬は、勢いよくうなずくと、元来た方向、アリオスト王子の邸宅の中へと突っ走っていった。
 あの勢いで屋内を走って、使用人にぶつかったりしないのだろうかと無益な心配をしながら、クラインは王子の表情をうかがった。
「殿下?」
「なんだ」
「随分と可愛らしい恋人をお持ちなのですねぇ」
 一度、何か言いかけて口をあけた王子は、クラインの表情を見てそれを取りやめ、長いため息を吐いた。
「…………ほっとけ」

 アリオスト王子が照れるさまという、かなり珍しいものを目撃したクラインは、その後、誰かにこの話しをしたい衝動を抑えるのに、随分と苦労する羽目になった。



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