遥は、昼休みのキャンパスの中を、黙々と歩いていた。
数日振りに完全装備だ……スカートつきという意味で。
すれ違う学生から視線を浴びているのはわかっている。遥を指差したり、そこまで露骨でなくても「あれあれ、あの人」といった態度を示す人もいる。
大学にまでこんな格好をして現れるようになったのは、昨年の晩秋ぐらいから。半年経って「女装の人」長江遥は、すっかりキャンパス内の有名人になっていた。
今日の彼の格好は、ちょっと変わったカットの紺色のシャツに、ホワイトデニムのタイトなロングスカートというもの。基本的にはロングスカートしか選ばないので、彼にしたらもっともスタンダードな女装、ということになる。とはいえ、その日によってやたらと安そうなカジュアルだったり、妙なフォークロア風だったり、たまにはブランド物と一目でわかるような服だったりする節操なしで、ひそかに楽しみにしているファンも多数いるという噂だが、本人はただ目についた服を買っているだけらしい。
ちなみに本日は、上下合わせて¥3800−也。
無造作に流した髪は、黒。伸ばしっぱなしにしていたら肩にかかるほどになってしまって、これはもう切ろうかと思っている。最近は、自分の髪で遊ぶことより、ウィッグにハマっているからだ。耳元には、普段ならしないようなアクアマリンのピアスがちらちらと揺れているし、靴だってきちんと女物を選んであって、彼の女装趣味がちょっとした酔狂や思いつきでないことを証明していた。
細身でスタイルのいい彼の後姿は、本物の女に見える。その辺、本人にも自信があった。
化粧っけはまったくないのだが、顔を見ても、すぐに女装の男だとはわからないはずだ。遥は自分の女顔にも自覚があったし、それを嫌だと思ったこともない。なぜなら、中性的で端正な彼の容姿は完璧に母親似で、父親に似たところをまるで感じさせないからだ。
遥がこの世で一番に嫌いなものは自分の父親で、この世で一番鬱陶しいと思うのはその父親似の弟だった。
「よぅ、遥ちゃん。今日も綺麗だねえ」
聞く人によっては誤解を招きそうな言葉で――いや、間違いなく誤解を招く気もするが――声をかけられ、遥はひょいと眉を跳ね上げ、振り返った。
こんな口を利く友人は、一人しかいない。
「はよ」
「おはよう、って、昼なんだけど」
「そ? じゃ、さようなら」
「コラ」
相手の男、三宅直人はすかさずツッコミを入れ……何しろ自己アピールが「出身は長野、心は関西人」という変人だ……ほんとうに立ち去っていこうとした遥の首根っこを捕まえた。
こんな真似のできる知人も、少なくとも大学には一人しかいない。
「これから中国語だろ」
「だよ」
「一緒じゃん」
「うん、うん」
「おまえ、まじめに話し聞いてる?」
「聞いてる。眠い」
必修の第二外国語は、クラスで講義が指定されている。彼らのクラスの大部分は第二外国語に中国語をとっていて、これからその講義というわけだった。
「寝不足?」
「んー、まあ」
気だるげに髪をかきあげる仕草が、妙に色っぽい。それが、余計に妙な視線を集める原因になっていることに、遥は気づいていないのだろう。だいたいにおいて、彼は他人の視線に無頓着だった。
頓着するような性格なら、こんな格好はしていない。
「朝まで遊んでたとか?」
「んー、遊んでたといえば遊んでたか。予習してないんだけど」
「珍しいな。いつもまじめなのに……でも頼る相手間違ってるぞ?」
「ん、最初から期待してないし。三宅はさぁ、今年はまじめに単位取る気なんだろ?」
「まぁね」
「今朝の経済概論、行った?」
「行ったと思うか?」
「いや。……なんか、ダルイよな」
「それはナニ? 五月病?」
「あー、それ、それ」
彼らの通う立南大学では、結構まじめに授業に出なければ単位が取れない。一昔前の、存在するだけで卒業できるような大学ではないのだ。それでも学生たちの間では、サボったのサボらないのといった話がいくらでも存在する。
遥と三宅のとりとめのない会話も、その中のひとつに過ぎなかったけれど、三宅はちょっと首をかしげた。
いつも飄々として、何事にもさしたる興味を払っていないように見えるこの友人が、めったに愚痴をこぼしたりしないのを知っていたからだ。
「元気?」
だったら「ダルイ」とか自発的に言わないのを知っていて訊ねたら、
「まぁ、今すぐどうこうっていうのでもないけど」
とよくわからない返答をする。
彼の視線は、ここではないどこか遠くを見ているようだった。そういうことは、たまにある。
そうして、そういう日に限って彼は、スカートをはいて大学に現れるのだ。
困った奴だと、三宅は内心で苦笑いした。また「旦那」と喧嘩したに違いない。遥からは、一言だって「喧嘩した」だの「上手くいってない」だのと聞いたことはないが――というより、三宅は「そういう人が存在する」という事実以外、何も教えてもらってはいない。すべて憶測だ――露骨にわかるのだからどうしようもなかった。
可愛げないくせに、そういうとこだけ可愛いんだよなと、三宅はやはり誤解を招きそうな感想を抱くのだった。
出ないとやばい3、4限を消化して、遥はさっさと家路についた。もともと人付き合いの悪い彼は、よほどのことがない限り仲間とどこかへ行ったりしないし、またサークルにも入っていないから、その方面で時間をつぶすこともなかった。
駅までは歩いて5分ほど。地下鉄を二つ乗り継ぐのが約20分、それから歩いてやはり5分程度。当然、その間ずっと女装のままだ。この場合、気づかない人も結構いるのだが、申し訳なさそうに視線をはずされることも、不躾に見据えられるのも日常茶飯事である。変な人に(人のことは言えない)絡まれたことも一度や二度ではないが、遥はまったく気にしていないようだ。
しつこいようだが、その程度でへこたれるくらいなら、別に女になりたいわけでもないのに女装したりはしない。
順調に行けば、5時過ぎには十分家まで帰り着けた。
家といっても、自分の家といっていいのかどうか、微妙なのだが。
「ただいまぁ」
カードキーでドアを開けると、遥はなんとなくつぶやいて、スニーカーを無造作に脱ぎ捨てた。
玄関を入ってすぐ右にある自室に直行し、鞄を放り出してスカートを脱ぎ捨てる。シャツのボタンをはずしながらクローゼットをあさって、薄い長袖のパーカーを引っ張り出し、その辺に放り出してあったハーフパンツを拾う。シャツもスカート同様に適当に放置して着替えをさっさと身につけると、思い出したようにピアスをはずして、こちらはちゃんとケースに放り込んだ。
それからばたばたと部屋を出て行き、キッチンで冷蔵庫から麦茶を出して、置いてあったマグカップに入れて一気飲みすると、キッチンを出て自室とは逆方向の部屋のドアを開けた。
そこはいわゆる「主寝室」で、現に部屋の奥にはででんとクイーンサイズのベッドが置いてある。遥は当然のようにそこへ直行して、ベッドの上に突っ伏した。
しばらくはもぞもぞと枕を抱えたり、シーツを引っ張ったりしていたのだが、やがて動きも止まって、寝息が漏れ始める。
寝不足の原因を作った人物は、今日は帰ってこないらしいから、とりあえず安眠だけは保障されていた。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、また別問題だが。
そして、なぜ寝不足になったかというと、話は前日の夜にさかのぼる。
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