give me...


2

 何が嬉しくて、自分の誕生日にたった一人で酒盛りをしなきゃいけないのか。
 それをむなしいと思うならしなければいいのだが、むなしいことをわかっていて飲むからヤケ酒というのだろう。
 遥は、空になったワインの瓶をちらりと見やって、顔をしかめた。
 ふらりと立ち上がり、リビングの端にあるカウンターに向かう。
 この無駄に豪勢なマンションの、やけに広々したリビングの隅には小さいながらも立派なバーコーナーが確保されていて、壁際の飾り棚に様々な種類のグラスや酒が納まっている。普段、客を呼ぶ習慣のない高岡にとって、そこはまったく自分用の酒置き場であるはずなのだが、遥が普通の学生なら絶対飲めないような高級な酒がごろごろあった。
 その中の一本、たぶんブランデーだと思う瓶を引っ張り出して、手際よく開ける。
 そして、手にしたビールジョッキに、勢いよく淡い色の液体を注ぎこんだ。
 まるで毒見でもするように鼻に近づけて、ちょっと匂いをかいでみてから、ビールを飲むのと同じ気軽さで喉に流し込む。
「げほっ」
 さすがに少しきつかったらしく、軽くむせたが、遥はそのまま無表情にブランデーの瓶を引っつかみ、元のソファに戻った。
 頭の中にもやがかかったようなのは前からで、酔っているせいではない。たぶん。
 どこかで、こんなことをしていて何になるんだとせせら笑う自分がいるけれど、大部分の理性は冬眠を決め込んでいて、酔いつぶれるまで飲んでやろうという馬鹿な決意を妨げることはない。
 むしろ、今まで酔って潰れたこともなければ記憶を飛ばしたこともない遥は、どこかでこの自分のヤケを面白がっている。
 そうでもなければ、やっていられないと思った。


 7月3日が遥の二十歳の誕生日であることは、二十年も前から決まっていたことで、今更どうこうできる事柄ではない。
 ロマンチストだと言われようが、中身まで女が身についてきたのかとか言われようが、恋人にこの日を祝ってもらいたいという気持ちは変えようがなくて、ずいぶん前から今日だけはあけるようにねだっていたのに。
 当日になって、「悪い。大事な商談が入った」だ。
 それで、遥が納得するとでも思っているのだろうか。
 今年に入って……いや、もう少し前からだろうか、自分たちの距離が遠のいてきていることはわかっているけれど、それが今すぐ切実な「何か」につながることだとは、遥は思っていなかったし、思わないようにしてきていた。
 高岡が、自分を避けているなどとは、決して。
 彼にとって自分とは何なのかと、考えてしまうような出来事も多々あったにせよ、高岡が好きでも何でもない人間を家に置いておくほどお人好しでないことはわかっていた。むしろ、大事にされている部類だと、そう思う。
 だが、ただ家に大事に飾ってあるだけなら、置物の猫にだって交換がきく。飾り物以上の価値を、自分に認められているのかどうか、最近遥は疑問に思っている。
 そして、世間一般の常識からいって、自分たちの関係が「愛人関係」以外の何物でもないことだけは、確かだと思われた。


 半分空いていた料理用の白ワインと、貰い物の高級そうな赤ワイン、間に自分で仕入れてきたカップ酒とこれまた料理に使っている紙パックの日本酒をはさんで、また赤ワイン。
 で、ブランデーを流し込めば――しかも無茶苦茶なペースだ――大概の人間は酔いが回るか気持ち悪くなるかして、ペースダウンしてくるものだろう。
 遥は幾分据わってきた目で、まだ3分の1ほど残っているブランデーの瓶を見やると、おもむろにつかんでジョッキの上で逆さにした。ごぼごぼという不規則な液体の流れは、ジョッキを7割程度満たして止まる。遥は空になった瓶を、やけに丁寧にテーブルの上に戻し、ジョッキを持ち上げた。
 時計は、9時を少し回ったあたりをさしていて、飲み始めて2時間もたっていないと気づく。
 だからどうというのでもなかったが、遥はため息をついた。
 時間がつぶれるか、自分がつぶれるかのどちらかだと思ったのだが、どちらも意外としぶとい。いつものパターンからいって高岡は帰ってくるとしても12時を過ぎるだろうし、帰ってこないことも大いにありうるから、このままのペースで飲み続けるのはどうせ無理だとわかっているのだが。
 遥はジョッキの中身をちょっと舐めてみて、その味とアルコールに嫌気がさしていることを確かめると、ちっと舌打ちして立ち上がった。
「タバコでも買ってこよう……」
 その辺に放り出してあった財布と携帯だけ拾って、室内の明かりもそのままに、遥は部屋を出た。
 ほとんど酔いを感じさせない様子で、5階からわざわざ階段を使って下り、外に出る。マンションの前の狭い道で少し頭をひねって考えたが、近場にタバコの自販機があったかどうかは、記憶になかった。普段吸わないから、当然といえば当然である。
「コンビニ……」
 ぶつぶつと、たいして意味のない独り言をつぶやきながら、歩き出す。
「でも1カートンもいらないよな。あー、甘い酒。つまみと……」
 高岡の自宅マンションは、南青山の閑静な住宅街に位置している。彼の趣味なのか、単に仕事場にも近くて便利だったのかは定かでないが、遥の知る限り、彼はもう数年に渡って同じ賃貸マンションの一室を借りていた。
 そこは2年前に高岡と暮らし始めて以来の、遥の家、帰るべき場所でもある。
 最寄りのコンビニまで徒歩3分ほどだったが、遥はふと思い立ってコンビニの前を通り過ぎた。
 ぶらぶらと歩き続けるうちに青山通りへ出て、そこから渋谷方面へ。途中で喉が渇いてスポーツドリンクを買ったほかは、黙々と歩き続けて、しまいに渋谷駅近辺まで出てきてしまった。
 あとになって思えば、この無意味な散歩が、すべての元凶とも言えなくもなかったのだが。
 嫌なことは、重なるものだ。


「長江?」
 名字を呼ばれて、振り向くべきかどうか一瞬迷った。聞き覚えのある声に、心の中で誰だったっけかと首をひねる。
「あ、やっぱりそうだ。奇遇だな、おまえ、こんなところでブラブラしてたのか」
 相手はするりと遥の前に現れて、顔をのぞき、皮肉な笑みを浮かべて言った。その整った顔を見て、遥はため息もつけずに小さくうめいた。
 ブラウンアッシュに染めた髪を後ろに流して、黒のスーツに身を包んだ青年は、いかにもホスト系といった雰囲気だった。美形の類には入るだろうが、きつすぎる目はチンピラっぽくも感じさせる。
「椎名かよ……最悪」
 思ったとおりを声に出すと、彼は鼻で笑った。
「つれないな。俺ってそんなに嫌われてるわけ?」
「当ったり前だろ。気安く声かけんな」
 本気でそう答え、睨みつけると、「おー、怖いな」とにやける。他人の視線くらいで怖気づくような相手ではなかった。
 遥は、くるりときびすを返して歩き出す。
 椎名は、当然のようについてきた。
「なんだ、帰るのか。おまえ、男に囲われてるんだってな」
「……」
 何で知ってるんだとは思ったが、考えてみれば知っていてもおかしくはないかもしれない。とにかく、遥は無視する。
 こんな所で出会ったこと自体、何かの陰謀のようにさえ感じられた。実際に、彼が偶然渋谷にいたのだとしても、遥としては胸を張って、それは陰謀だと言い張りたい。
 そういう相手だ。
「おい。おまえ、そっちの気あったか? 昔は、変な目で見てくる野郎を容赦なくボコってたよなあ? っていうか、アナルセックスってどーなのよ。ひーひー言っちゃってるわけ? だいたい、相手があの鬼畜っぽい高岡伊織だっていうんだから笑うよな。おまえ、実はマゾ?」
 言っている内容はおおむね間違っていないような気がしたが、それだけに妙にカチンときた。それは、まだアルコールの残った頭のせいだったかもしれない。
 遥は、相手を冷ややかに見返した。
「気になるんだったら、やってみりゃいいだろ、男と。おまえが世話になってる林ってヤツ、男の趣味で有名らしいじゃねえか。誘ってみたらどうなんだ。それとも、もう食われたあととか?」
「うるせえよ、誰があんなオヤジにケツの穴見せるかっての。けっ、まっとうに暮らしてるように見せかけて、ちゃんと知ってんじゃねえか」
「おまえのことは宇山が言ってたんだよ、知ってるだろ、青鬼」
「あー、あのデカイ男ね。そういやおまえ、あいつの取り巻きだったんだよな。ふーん。で、愛人生活っていうのはどうなのよ。何不自由なく優雅にお暮らし? っていうかおまえ、あれがヤクザなの知ってるのか? 知らないわけはないよな?」
 遥としては一刻も早くこの場から立ち去りたかったのだが、椎名に遥を逃がす気がないのは見え見えで、結局、旧交を確認するような険悪な応答を続けてしまっていた。
 椎名は、遥の高校時代の仲間内の一人とでも言ったらいいだろうか。手っ取り早く言えば彼らはいわゆるチーマーだったのだが、グループの中でも二人の位置はほぼ対極にあって、仲がいいとはいえない間柄だった。
 高校時代、遥は家にいることが嫌で年中街をぶらついていた。そして、夜を街中で過ごしていれば、椎名たちのような危険なグループと知り合いになるのも当然の流れで、遥自身、暴力や犯罪と隣り合わせの生活を毎夜繰り返していたのだった。
 しかし、高岡と付き合うようになってからは当時の知り合いとはまったく縁を切った状態にある。椎名と顔をつき合わせるのも2年ぶりだった。

「それで、なんか用でもあるわけ? 林は有働の一派だそうだから、高岡が気にかかるのはわかるんだけど。そういう用ってわけ?」
 遥の問いに、椎名は笑って答えた。
「よくわかってんじゃない。それも青鬼? それとも旦那?」
「どっちだっていいだろ、そんな些細なこと」
「ふうん、高岡は案外秘密主義か」
「案外って何なんだよ、案外って」
 図星を指されて、内心で椎名の頭に金属バットを振り下ろしながらも、遥は普通に答えた。
 高岡が、自分の抱えている事情を遥に話したがらないのは事実だ。それが遥にとってどれくらい悔しいことであるか、彼にはわかっていないのだと遥は思う。
 ときに、自分がただの置物に思えてくるのは、高岡が難しいしかめ面をして考え込んでいるときだというのに。
「いいこと教えてやろうか?」
「いらん」
 椎名の薄い笑みほど危険なものはないと、遥は経験上知っている。きらりと光る目が何かろくでもないことを考えていることくらい、酔いの冷め切っていない目でもすぐわかった。
「まあ遠慮するなって。興味あるだろう、有働は最近、高岡とよく会ってるそうだぜ」
「へえ」
「それで、林に聞いたんだが、有働の娘を嫁にやるって話が出てるらしい」
「……高岡に?」
 乗ってどうするのだとは思ったけれど、いかにくだらないネタでも、そう言われれば引っかからざるをえなかった。
 椎名は嘘つきだが、荒唐無稽なことを言うヤツではない。
「ほかに誰の話をしろって?」
「政略結婚で、高岡を取り込むっていう意味? でも、それって意味あるのか?」
「要するに、人材を求めてるんだろ。あの男のおかげで、英燐会がどれだけ稼いでると思う?」
「だからって、嫁ねえ」
 男の裏のビジネスについては、なんとなく聞き知っていたが、そちらが本業でないことも遥は知っている。だいたい、有働が取り込むと言ったって、高岡は最初から、有働の当面のライバルである堀田真澄とのほうが親しいはずだ。今更、それはどうこうできる関係でもないように思えた。
「ま、嫁の話はオーバーかもしれないけどな。女は、世話してるらしいぜ」
「あっそ。大変だな、やりとりされる女のほうも」
「ちょっとは反応してみせろよ。それとも、やせ我慢か」
「うるせえよ、ばぁか。ほかの相手がいるかどうかくらい、一緒の家に住んでりゃわかるっての」
「ああ、女の勘は鋭いからなあ」
 無視して歩き出すと、椎名はまだまとわりついてきた。
「おまえ、暇なのか。新宿で店やってるって聞いたぞ?」
「スカウト活動中。どうよ、ホストクラブでバイト」
「誰がてめえの怪しげな店なんかで働くかっつうの。どんだけ金に困ってても、それだけは絶対嫌だ」
「そりゃ残念。長江ならナンバー1になれるだろうに」
「嫌味かそれは。で、話がないんだったらとっとと失せろよ」
「まだ本題をしゃべってないのに?」
「長い前置きだな。別に聞きたくないから、どっか行け」
「やだね。ここで会ったが百年目ってやつ。きっちり借りは返させてもらうから、楽しみにしてろよ。まったく、やあなことまで思い出しちまったじゃないか」
「それはこっちのセリフだ。人に迷惑掛けたことは3日で忘れる鳥頭が」
 椎名はにやりと笑って、軽く振り出した遥の脚をよけた。
 もともと本気ではなかったので、残念そうにもせず、遥は椎名を睨みすえる。借りを返す=復讐する、なのは明らかだったが、返してもらうべき貸しはあっても、仕返しされるようなことをした覚えはなかった。
 もっとも、椎名が常に遥に対して悪意を持っていたのは確かだ。それは、遥にしても同じことだったから。
「ま、ネタはいろいろあるんだけど、今日のところはひとつだけな。林が、お前に興味があるってよ。身の回りに気をつけたほうがいいよ、有働と高岡の間が決裂したら、いろいろあるだろうから。それか、旦那自身にも注意しといたほうがいいかもね。あっちも、保身に忙しいだろうし?」
 忠告なのか、脅しなのか。むしろ後者に違いないが、遥はため息とともにそれを受け入れた。馬鹿げていると頭ごなしに否定するには、遥はいろいろ知りすぎていた。

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