give me...


3

 結局、椎名と別れてから胸がむかついてきて――それが酔いのためか、話の内容のためかはわからなかったが――目に入ったフランチャイズのカフェに気がついたら足を踏み入れていた。
 別にコーヒーが飲みたい気分だったわけでもなく、だからといってほかに思いつかずに頼んだアイスカフェラテを飲み干して、しばらくぼんやりなどして、ようやく帰る気になった頃にはもうすぐ11時という時刻になっていた。
 正直、帰りたいとは思えなかったが、なぜかそれとは反対に、どうして今までぼんやりしていたんだという焦燥感も覚えて、遥は店を出ると早足に歩き出した。それでもタクシーを拾おうとか考えなかったのは、習慣の問題と言うより、やはり帰りたくない気持ちのせいだったのだろう。
 帰る間中、遥は、どうして誰もいない部屋へ帰らなければいけないのかという自問と、もう高岡が帰っていて、不在の自分に腹を立てているのではないかという不安とに駆られていた。携帯は手元にあって、その気になれば高岡の携帯にかけることも、家にかけることもできたが、そうするのも何かためらわれた。
 遥は、高岡と電話で話すのが妙に苦手なのだ。もし家にかけて高岡に出られたら、黙って切ってしまいかねないくらいには。


 マンションを見上げて、見間違いようのない最上階の部屋に明かりがついているのを確認して、遥は泣きたい気分になったが、よく考えたら電気を消さずに部屋を出てきたのは自分だった。
「なんだ……」
 自分の鼓動を感じるのは、急ぎ足に帰ってきたせいだと片付けて、遥は正面玄関のロックを解除して中へ入った。
 エレベーターであがる間中、やはりどきどきする胸は収まることを知らず、自分のどうしようもなさを確認させられる。
「なんで、俺がどきどきしなきゃいけないわけ?」
 もし帰っていたら。……どうだというのだろう。確かに2時間少々外に出ていた計算にはなるが、約束の6時を3時間過ぎても帰らなかった人に、文句を言われる筋合いはないのではないか。だいたい、帰ったなら、携帯に電話を入れるくらいはしないか。
 自分に対する言い訳でしかない、そんな埒もない思案は、玄関のドアを開けたことで中断された。
 足元に、さっきは間違いなくなかった男物の大きな革靴の存在を確認して、遥は唇を噛んだ。
 無言で靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングに入ると、足を組んでソファに腰掛けた男が、ゆっくり振り返った。
「伊織……」
 無意識につぶやくと、名を呼ばれた男が薄く微笑む。
「酔いでも覚ましてきたのか」
 想像したより男の言葉は穏やかで、遥は内心でほっとしながら、黙ってうなずいた。
 手招きされ、そちらへ歩み寄る。
「座れよ」
 遥を見上げ、目を細めるようにして、男は促した。余裕の表情に、かえって遥はむっとする。
「いつ帰ったんだよ」
「30分くらい前だ。ご機嫌を取るには、ちょっと遅すぎたようだがな」
 確かに高岡は、背広を脱いでネクタイをはずしただけの姿だったが、遥が散らかしたままにしていた酒の空き瓶そのほかは、綺麗に片付けられた後だった。この男は、包丁も持たないような顔をして、家事全般を器用にこなす。
 傍らに腰掛けた遥は、引き寄せられ、口づけられるのに抗わなかった。
 離れていく唇を追いかけて、自分からキスをして、それから目の前のきつい光を宿す目に見入った。
「何か、言うことはないわけ?」
「言うこと、ね」
 嫌になるほど端正で、精悍で、男の色気というものをも兼ね備えた容貌は、普段からかなりクールな印象を与える。冷ややかで鋭い眼光が、たまにやさしい光を宿して自分を見ていることも遥は知っていたが、今はかなり冷淡な様子に見えた。
「怒ってる?」
「どうして俺が怒るんだ?」
「だって怒ってるだろ」
「怒ってるのはお前だろう。悪かったな、本当に、今朝までは大丈夫なはずだったんだ」
 ふいと横を向いて視線をそらすと、高岡が苦笑して遥の髪を撫でる。
「誕生日おめでとう、遥」
 昨夜の帰りは、遥がベッドでうとうとしはじめた午前一時半過ぎで、今朝も起きたら出かけた後。そして、昼間に急用が入ったと連絡があったのはメールだったから、その言葉をまだ聞いていなかった。
 遥はそっぽを向いたまま小さくうなずいて、ちょうど斜め後ろあたりにある高岡の身体に寄りかかった。
 子供っぽいのはわかっているが、本当は二人でケーキを食べて、プレゼントをもらって一緒に穏やかにすごすような、そんな誕生日が望みだった。遥の記憶にある限り、それは家族のもとでは一度も実現されなかったイベントだったから、たとえばケーキの上のロウソクを吹き消すようなことでさえ、やってみたいと思ってしまう。本当にやれといわれたら照れるだろうけれど。
 素直にプレゼントをねだることもできず、それになかったら悔しいので、そのままなんとなく顔をしかめていると、頬にキスされた。そのまま、甘い低音が耳元でささやく。
「お姫様のお出迎えがなかったから、プレゼントはお預けな」
「なんでだよ!」
 ていうか、お姫様ってなんだというツッコミは、もはやない。前に言ったら、じゃあ僕(しもべ)とか言われたし。とりあえず、王子様でないことだけは確からしい。
「……してたんだけどな……」
 背後で少し笑ったのが伝わった後、ぼそりとつぶやかれた言葉はよく聞きとれなかった。振り返って問いただそうとすると、タイミングを計ったように、目の前に手が差し出される。
 リボンのついた、小さな箱。すぐに、何かのアクセサリーが入っているとわかるケースだった。
「くだらないかとは思ったんだが、おまえはこういうのも好きだろう?」
 背後を窺うと、ここ最近では珍しいような、やけに優しい目で高岡が自分を見ていた。
 さっきまで怒っているようにさえ見えた高岡の急な変化に戸惑った以上に、なぜかやましい何かを見透かされそうな気分になって、遥は背中を向けると、ソファの上の狭いスペースに体育座りして、こそこそと開けてみた。
「うわ」
 それは、ルビーのピアスだった。ピジョンブラッドと呼ばれる、強烈な赤色の小さな石を使った、シンプルなピアス。
「赤い」
「赤いだろ、ルビーなんだから」
「けど、赤いよ」
「そうか?」
 高岡のことだから、自分が買ってきたルビーの品質やその能書きはよくわかっているのだろうが、大学の入学式用のスーツや、ニューヨークの出張土産だった時計をくれたときと同様、それをことさらに説明するようなことはしなかった。ただ、穏やかに遥を見守るだけで、かえって遥の心拍数を上がらせる。
「うん、赤い。それにしても、いつつけるんだ?」
 もらっておいてなんだが、女装の方が似合いそうだなあと思いながら、遥は片方取り上げた。
「つけて」
「はいはい」
 髪をかきあげる指の感触に、遥は目を閉じた。やさしい手つきで、男が耳朶に触れ、シルバーのピアスをはずして新しいピアスをつける。
 男はそのまま遥を背後から抱き寄せるようにして、もう片方の耳のピアスも付け替えた。自分でねだっておきながら、遥は、他人の耳によくそんなにさりげなくピアスが装着できるなと感心する。
 あるいは、それは意外と簡単なことなのだろうか。それとも、慣れているから?
「何、難しそうな顔をして」
「ピアスだけ?」
「何が?」
「誕生日」
「プレゼント?」
「誕生日らしいこと」
 背後の男が、ふっと鼻で笑うのがわかり、遥はまた顔をしかめた。
「だって、そうだろ?」
「リクエストは?」
「去年は、言う前にいろいろやった」
「おまえ、実は結構怒ってるだろ」
「怒ってないよ」
「馬鹿だな」
 何が馬鹿なんだと言い返そうとして、唇を奪われる。遥は、一瞬相手の身体を突き放そうとしたが、その手を巧みに抑えられると、あとは抗わず、強引に唇の間に割り入ってくる舌も受け入れた。
「あ、んっ」
 甘い声がもれるのを、我ながら可笑しく思う。ほんの少し前に、椎名と話をしたせいだろうか。男の腕に引き寄せられ、完全に身体を預けて口づけを受けている自分を、なぜか客観的に感じてしまった。
「何を考えている?」
「ん、なに?」
「別のことを考えてるだろう」
 だから、高岡がそれに気づいたのも無理はない。少し怪訝そうに眉根をよせて自分を見る男の胸元に、遥はとぼけるすべさえ知らずに顔を寄せた。

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