give me...


10

 話をしていたのは半時間ほどだろうか。
 今の高岡の居場所だとか(予想通りだった)、高岡が寝ている女の話だとか(むしろ、なぜ納谷が知っているのかが謎だ)、高岡がよく通っている会員制高級クラブのことだとか、あるいは大学時代に高岡が付き合っていた相手の話だとか。
 きっと誰よりも高岡の弱みを多く握っているのはこの男だな、と思えるくらい、納谷は何でも知っていたし、何でも話してくれた。
「だって、知りたいんでしょ?」
 と笑いながら。
「まあ、遥くんは他人じゃないからね、彼にとって。それに、少々の悪口くらい、許されたっていいと思うだろう、君も。この2ヶ月ばかり、僕がどれだけ彼のフォローに尽力してるか、考えてもみてほしいよ」
「そうだよね、納谷さんがいるから、ぶらぶらとよそへ行ってられるんだよな」
「職務放棄してやろうかと思うよ、ほんと」
「はは。しないくせに」
「そうなんだよね、そういうところ、見越されてるから」
 なごやかに話す時間も、高岡のことを聞くのも楽しかった。もっとも、内容は不快なことも多かったけれど。
 納谷も、迷惑顔一つせずに付き合ってくれたのだが、時間がないというのは本当らしかった。秘書らしい女性がドアをノックして、呼び出された納谷は、ちょっと待ってね、とひとこと残して部屋を出て行った。
 そろそろ帰ったほうがいいのかなと思いつつ、遥が所在無く座っていると、入り口のドアが開いた。
 納谷が帰ってきたのだと思い、そちらに顔をやった遥は、そのまま固まった。
 意地の悪い、絶対怒ってそうな笑みを浮かべた男が、そこに立っていたのだ。
「……伊織?」
「おまえに、黙って家にいろって言うのは、土台無理な話だってわかってるけどな……」
「今日来てないって……」
「今来たんだよ。俺のことを嗅ぎまわって楽しいか?」
「…………」
 嗅ぎまわって、と言うニュアンスには、納谷相手のリサーチ以外のことが含まれているようだった。きっと、吉見が高岡に報告したのだろう。根掘り葉掘り聞いて、いろいろ無理やり引き出したから、黙っているとまずいと思ったに違いない。
 そんなことを思いつつ、遥はじっと高岡を見上げていた。淡いブルーのワイシャツを着ていて、上着はどこかへ置いてきてしまったらしい高岡の、上半身が気になる。もう2週間近くも触れていないから、そのたくましい胸に抱きこまれて、キスされて、それ以上のこともしたいとなんとなく思った。
 近寄ってきた高岡が、くい、と遥の顎をとって上向ける。
 苛立ちのこもった、瞳の暗い色が、綺麗だと思った。
「伊織?」
 挨拶のような、触れるだけのキスをされて、意味がわからずに名前を呼びかける。一瞬、瞳に苦い笑みがよぎるのを見た気がした。
 次の瞬間、鼻をつまんで捻られた。
「ふがっ!? なっにすんだよ、やめ、こら! あ、やっ」
 慌てて振り払うと、今度は耳を引っ張り、ほっぺたをつねり、脇の弱いところをくすぐりにかかって………逃げようとしているうちに、椅子からずり落ちた。
「ちょっと、何騒いでるんですか」
 いいタイミングで、ドアが開いて納谷が顔を出す。
「遥くん可愛がるのはいいんですけど、社内ではやめてくださいね」
「はいはい。わかってますよ」
 出てけ、の手振りで顔が引っ込む。
「……確認しなきゃいけないようなことなのか、それは」
 椅子からずり落ちたままの遥の問いに、高岡はにやりと笑った。
「そりゃあ、納谷がそう思うんだからそうなんだろ」
「こんな壁薄そうなところでも?」
 きちんとした壁に隔てられた一室というより、ここはパーティションに毛が生えた程度の壁で仕切られたスペースだ。そして、向こうには納谷以外にも何人か社員がいるらしい。
「社員がやったらクビだが、俺は社員じゃないしな」
 しかめっ面に、高岡が笑い、遥に手を貸して立ち上がらせた。
 引き寄せられて、腕の中におさまる。
 鼻をつけたワイシャツから、かすかな煙草の匂いを感じて、遥はあれ、と思った。高岡はたまに酔ったときくらいしか煙草を吸わないし、ここの会社は社内禁煙だと聞いたことがある。こんな夕刻に会社に現れたのだから、きっとその前はやくざな仕事に追われていたのだろうから、そのときに付けてきた匂いだろうか。
 香水などつけない高岡の「元の匂い」を探して、首筋あたりをくんくんやっていたら、高岡がくすりと笑った。
「こら。何してるんだ」
 頭を押さえられて、鼻先が肩のあたりにおさまった。
 仕方なく、相手の背に腕を回して目を閉じる。
 抱き寄せるのは、駄々っ子はなだめておかないとあとが厄介だと思われているからで、顔まで押さえてしまうのは、自分の険しい顔を見られるのが嫌だから。そんな思惑は判りきっていたけれど、密着するのは嫌ではなかった。
 何から何まで、いいようにされていると思う。
「なあ、伊織。俺は、毎日おとなしくガッコ行って、終わったらすぐに帰ってきて、ひとりでぼんやりしてるために、あの家にいるんじゃない」
「そうだな」
「言っただろ、捨てないって。一緒にいるって……そう言ったから、伊織が言うから俺は……」
「誰が捨てるなんて言った」
「半分捨てられてるも同然じゃないか」
「どこが。おまえ、ひとの話を……」
「だって仕方がないだろ!」
 駄々をこねたくなんてないのに、結局会えばそればかりだ。高岡が甘やかすから、どんどんわがままになると、そう思う。
 遥が声を荒げたときさえも、二人の姿勢はそのままで、高岡がくしゃりと遥の髪に指を差し入れた。
「仕方ないだろ……伊織がどこを見てるのか、俺には全然わかんないんだから……」
 不安は、毎日じわじわと侵食してきて、遥の心を蝕んでいく。
 不安をおぼえ始めた頃は、とりあえず高岡さえ側にいれば、落ち着きを取り戻すことができたのだ。すべて忘れて、幸福感に浸るのは簡単だった。それが今では、高岡とこうして触れ合っていてさえ、彼が遠くにいるような焦燥感に苛まれてしまう。
「伊織の目がどっか違う場所に向いてるんじゃないかって、毎日思うんだよ」
 ……おまえしか見てないのに。
 そんな応えが、独白のようにぼそりと降ってきて、一瞬目を見張った遥は、シャツ越しの肩に噛み付いた。甘噛みなんて生易しいやり方じゃなく。
「った! おまえっ……」
 さすがに身体が退いて、ほんの20センチほど二人の距離が広まり、遥は高岡を見上げて舌を出してみせた。
「とにかく! 伊織があーだこーだややこしいことを全部片付けて帰ってくるまで、おとなしく待ってるなんて、そんな殊勝なこと俺には無理なんだから。少々あんたのこと聞きまわってたからって、ひとを犯罪者みたいに言うなよな」
 それだけ言い捨てて、するりと高岡の腕を抜けようとしたのだが、いつものことで、そう上手くはいかない。
 やたらとすばやく伸びた手が、背後から襟をつかんで引っ張り、喉を圧迫された遥は見事にむせた。
「んがっ、げほっ、ごほっ……もうっ、何すんだよっ」
 涙目で見上げる男は、勝ち誇ったように笑っていて、どうやらさっき噛んだのの仕返しらしい。なんて低レベルな、と自分のことは差し置いて頭の中で悪態をついた遥は、とりあえず息を整えて高岡に向き直った。
「なんだよ?」
「明日、試験あるのか?」
「ん、あるよ。1コだけだけど、2コマ目だから……」
 付き合ってる暇ないからな、とそう言おうとしたのだ。訊いてくる意図は、顔を見ているだけでわかった。それに、自分だってちょっと期待していた。
 でも、なんとなく、ほいほいついて行く気分になれなかったのだ。何かが、少し嫌で。
「大学行く準備して、俺の今いるホテルに来いよ。明日、送ってってやるから。嫌か?」
「ん………じゃあ、行く。どこ?」
 変わり身の早さに、自分でも呆れる。
 でも、嫌だなんて、言えるわけがない。
 言えるわけがなかった。

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