give me...


9

 大学は試験期間に突入して、妙に活気を増していた。
 コピー機の前に群がる学生に、見覚えのないクラスメート。ノートとレジュメと試験情報を求めて、友人が三割増になるという話。遥のノートも、周囲でひそかに人気を集める『お得物件』だった。なぜか、講義に真面目に出ていたはずの者までもコピーを取っているらしい。もっとも、遥に直接ノートを貸してくれと言ってくる相手は、そう何人もいなかったが。
「るかちゃん、るかちゃん! ねえねえ、こら、遥!」
 学生食堂の外階段の下でぼーっとしていたら、上のほうから明るい声で呼ばれた。
「あ……」
 かなり反応が遅れたのは、寝不足のせいでも考え事をしていたからでもなくて、単に相手の呼び方が変だったからだ。
 振り向くと、一見してお嬢様とわかる、上品で、でも嫌味のない雰囲気の女子大生が笑っていた。上の通路を通りかかったらしい。
「何やってるの」
「何って、三宅待ってんだけど」
「お昼食べた?」
「いや、まだ」
「一緒に食べようよ」
「あ〜、まあ、やめとく。用事があって、これから帰るから」
「そう、残念。ねえねえ、柳井の金融論のレジュメ、全部持ってる?」
「……たぶん。今?」
「今」
「ちょい待ち」
 階段を駆け上がる。今日は普通にジーンズだから、動きには困らない。実際のところ、ヒールの高い靴にタイトなロングスカートなどという格好だと、たまにこけそうになるのだ。
「有吉、金融論出てなかったか?」
「全部は出てないよ、さすがに。月1は辛いって」
「おっさんのところに入り浸るからだろ」
「ちょっと、るかちゃん? 自分の旦那も似たり寄ったりの年だってわかってる?」
「ま、だ、奴は29歳だし。三十路で、一回りも上の相手と一緒にしないでほしいな」
「よく言うよ」
 遥は嫌味に笑ってみせながら、鞄からバインダーを出して、中の20枚くらいを引き抜いた。
「わぁい、サンキュv」
 有吉真帆とは最近まで、互いに面識がある程度で特に親しくもなかったのだが、ひょんなことから『男との同棲生活』がバレてしまって、それ以来なぜか懐かれていた。彼女も人のことを言えないくらい『婚約者』(ちゃんと異性)の家に入り浸っているようで、最近は避妊に失敗することに憧れているそうだ。
『で、臨月になっても大学出てきて講義受けるの』
 だそうだが、何がしたいのかは謎だ。とりあえず、本気で失敗する予定はまったくないらしい。
 真帆は自分のバッグにレジュメをしまうついでに、何かをごそごそ取り出していた。
「るかちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」
「へ?」
「カルシウム取らなきゃ駄目だよ〜。カルシウム不足はイライラの元だからね」
「はあ」
 カルシウム入りビスケットの小袋を一袋……鞄の中に押し込まれた。
「何これ」
「なんか、ドラッグストアで試供品で配ってたんだよね」
「はあ」
 都合のいいゴミ箱にされたような気がするのは、きっと間違いではないはずだが。悪戯っぽく笑う真帆の屈託のなさは、いつもトゲを逆立てたハリネズミのように、周囲から一歩引こうとしている遥にとって、肩の力を抜くことを教えてくれる貴重な存在だ。
「ほんと、たまには旦那にご飯でも連れてってもらいなよ。るかちゃんにこれ以上痩せられたら女の立場がないんだから」
「そうか?」
「みんな言ってるって。なんであんなに細いのって」
「ふーん。俺は、女の子は少々丸いくらいの方が好きだけど」
「あなたの好みは聞いてません。あ、三宅いたよ。レジュメいつ返そうか」
 真帆は、向こうから歩いてくる三宅に手を振っている。三宅も気づいて、よっ、と手をあげていた。どうやら似たもの同士、気が合うらしい。
「明日か明後日、どうせどっかで会うだろ」
「いいの?」
「別に、まだその試験、先だし」
「じゃあ、また明日ね」
 どうやら、女友達を待たせていたらしい真帆が立ち去って、遥は階段をゆっくりと下りた。


 そのビルのある場所までは、何度か車に乗せられて来たことがあったが、自分で来るのは初めてだった。
 そして、建物の中に入るのも今日が初めてだった。
 エレベーターの前に立って案内板を見れば、8階建てのこのビルの、6階から8階に渡って入っている会社がある。それが、高岡伊織が経営している会社だった。
 エレベーターに乗り込むと、直接8階に来るように言われていた遥は、少しためらいつつも『8』のボタンを押した。
 8階のフロアに着くと、目の前に注意書き。

『***コンサルティングに御用の方は、6階の受付へお越しください』
 せめてジーンズはやめたほうがよかっただろうかと、関係のないことを思いながら、遥は携帯を取り出して、履歴の最初に入っている番号にかける。相手が出る前に切って、ほんの10秒ほど待つと、左の方の扉が開いて、目当ての人の姿が見えた。
「早かったね」
 ダークグレイのスーツをきっちりと着込んだ、ひょろりとした長身の男性は、柔和な顔に笑みを浮かべてそう声をかけてきた。
「納谷さん」
 遥はほっとしたように少し笑みを浮かべ、小さく会釈した。
「お忙しいところにお邪魔してすみません」
「ほんと、誰かさんのおかげでね。悪いけど、外へ出られるほど時間がないんだよ。ミーティングルームを空けてあるから、そこで話しよう」
 会社の中を歩くのは気が引けると思っていたのだが、幸いミーティングルームは入り口に近い位置にあった。ほとんど誰の視線を浴びることもなく、事務室の端を通って、八畳間ほどの広さの部屋に入る。
「どうぞ、座って」
 納谷は後ろ手にドアを閉めながら、遥に椅子をすすめた。遥が入り口近くの椅子に座ると、自分もその斜め向かいの椅子に腰掛ける。
 遥は、見えもしない壁の向こうを窺うように見て、口を開いた。
「来てないんですか?」
 故意に主語を抜いた問いかけに、納谷が苦笑する。
「まあ、それなりには来ているよ。週休3日、週25時間労働ってところかな」
「……パート社長だ」
「そうそう、うちの秘書もそんなことを言っていたよ」
 高岡伊織のこと以外に、遥の関心がありえないのは、納谷もよくわかっている様子だった。何しろ、大学時代からの付き合いで、会社設立時から共に働いてきている、高岡の右腕とも言える存在なのだから。
 当然、『家庭の事情』も、しっかりバレている。
「そんなんで大丈夫なんですか」
「大事な会議や商談には、無論出てもらっているよ。いない時間が多いから、不便なのは不便だけれど、メールでリアルタイムのやり取りはできているし………遥くんがどう感じているのかは知らないけれど、彼は真面目だよ。自分の仕事を投げ出せるタイプじゃない」
 よほど不審そうな顔をしていたのだろう。納谷は言葉を付け足した。
「だからいらない仕事まで拾ってくるんでしょ」
「まあ、それはそうかもしれないね。ヤクザのことは僕にはわからないけれど、他にも付き合いようがあるんじゃないかとは思うよ。でも、それは彼自身の問題だ」
「そんなふうに割り切れる問題ですか? 伊織が何をしてるのか知らないけど、下手をしたら、刑事事件になる可能性だってあるわけでしょう?」
「そうだねえ」
 そんなことを聞きに来たわけではないのだが、つい声を荒げて問い掛けると、納谷は小さく微笑してのんびりした口調で答えた。
 10年以上も高岡と付き合ってこれた経歴は伊達じゃない、といったところだ。人間ができている。
「もし彼がそんなことでドジを踏むような男なら、僕はわざわざ東京くんだりまで彼についてきていないよ。壮大な先物買いをした僕の先見の明を信用して欲しいね」
 流暢な日本語と、どこからどう見ても日本人の外見にだまされるが、アメリカ人だ。日系4世だそうで、血筋は100%日本人でも、国籍はアメリカ合衆国。生まれも育ちもアメリカ合衆国。
 それで、高岡と組んで仕事をするためだけに日本に来たのだから、確かにたいした先物買いかもしれない。
「なんか納谷さんに言われると、毒気そがれるなー。あの人、本当にちゃんと向こうと折り合いつけて帰ってくると思います?」
「僕は、そう信じてるよ」
 そう言われると、まるで信用しない自分が悪いような気もしてしまう。
 他人に言われたのなら気にしないだろうが、納谷は別だった。
 高岡の仕事上の相棒であり、親友である男のそのポジションが、羨ましくないと言ったら嘘になる。
 無論友達になりたいわけではないが、恋人と対等な立場に立ち、彼を助けられる自分と言うのが、遥の理想であり、夢だった。今のところ、それはただの夢物語でしかない。
 現実の遥は、高岡に生活費はおろか学費まで出してもらっている『息子も同然』(宇山談)の立場であり、高岡がトラブルに巻き込まれれば、その飛び火をかぶらないように庇おうとさえされてしまう身なのだから。
 結局、今の自分は、高岡に「大人」だと認めてもらえないことに焦れて、駄々をこねているだけなのだと思う。
 こうやって、くだらない悪あがきをしてしまうところがなおさら「子供」なのだとは、わかっているけれど‥‥‥。

back top next
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送