大学は試験期間に突入して、妙に活気を増していた。
コピー機の前に群がる学生に、見覚えのないクラスメート。ノートとレジュメと試験情報を求めて、友人が三割増になるという話。遥のノートも、周囲でひそかに人気を集める『お得物件』だった。なぜか、講義に真面目に出ていたはずの者までもコピーを取っているらしい。もっとも、遥に直接ノートを貸してくれと言ってくる相手は、そう何人もいなかったが。
「るかちゃん、るかちゃん! ねえねえ、こら、遥!」
学生食堂の外階段の下でぼーっとしていたら、上のほうから明るい声で呼ばれた。
「あ……」
かなり反応が遅れたのは、寝不足のせいでも考え事をしていたからでもなくて、単に相手の呼び方が変だったからだ。
振り向くと、一見してお嬢様とわかる、上品で、でも嫌味のない雰囲気の女子大生が笑っていた。上の通路を通りかかったらしい。
「何やってるの」
「何って、三宅待ってんだけど」
「お昼食べた?」
「いや、まだ」
「一緒に食べようよ」
「あ〜、まあ、やめとく。用事があって、これから帰るから」
「そう、残念。ねえねえ、柳井の金融論のレジュメ、全部持ってる?」
「……たぶん。今?」
「今」
「ちょい待ち」
階段を駆け上がる。今日は普通にジーンズだから、動きには困らない。実際のところ、ヒールの高い靴にタイトなロングスカートなどという格好だと、たまにこけそうになるのだ。
「有吉、金融論出てなかったか?」
「全部は出てないよ、さすがに。月1は辛いって」
「おっさんのところに入り浸るからだろ」
「ちょっと、るかちゃん? 自分の旦那も似たり寄ったりの年だってわかってる?」
「ま、だ、奴は29歳だし。三十路で、一回りも上の相手と一緒にしないでほしいな」
「よく言うよ」
遥は嫌味に笑ってみせながら、鞄からバインダーを出して、中の20枚くらいを引き抜いた。
「わぁい、サンキュv」
有吉真帆とは最近まで、互いに面識がある程度で特に親しくもなかったのだが、ひょんなことから『男との同棲生活』がバレてしまって、それ以来なぜか懐かれていた。彼女も人のことを言えないくらい『婚約者』(ちゃんと異性)の家に入り浸っているようで、最近は避妊に失敗することに憧れているそうだ。
『で、臨月になっても大学出てきて講義受けるの』
だそうだが、何がしたいのかは謎だ。とりあえず、本気で失敗する予定はまったくないらしい。
真帆は自分のバッグにレジュメをしまうついでに、何かをごそごそ取り出していた。
「るかちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」
「へ?」
「カルシウム取らなきゃ駄目だよ〜。カルシウム不足はイライラの元だからね」
「はあ」
カルシウム入りビスケットの小袋を一袋……鞄の中に押し込まれた。
「何これ」
「なんか、ドラッグストアで試供品で配ってたんだよね」
「はあ」
都合のいいゴミ箱にされたような気がするのは、きっと間違いではないはずだが。悪戯っぽく笑う真帆の屈託のなさは、いつもトゲを逆立てたハリネズミのように、周囲から一歩引こうとしている遥にとって、肩の力を抜くことを教えてくれる貴重な存在だ。
「ほんと、たまには旦那にご飯でも連れてってもらいなよ。るかちゃんにこれ以上痩せられたら女の立場がないんだから」
「そうか?」
「みんな言ってるって。なんであんなに細いのって」
「ふーん。俺は、女の子は少々丸いくらいの方が好きだけど」
「あなたの好みは聞いてません。あ、三宅いたよ。レジュメいつ返そうか」
真帆は、向こうから歩いてくる三宅に手を振っている。三宅も気づいて、よっ、と手をあげていた。どうやら似たもの同士、気が合うらしい。
「明日か明後日、どうせどっかで会うだろ」
「いいの?」
「別に、まだその試験、先だし」
「じゃあ、また明日ね」
どうやら、女友達を待たせていたらしい真帆が立ち去って、遥は階段をゆっくりと下りた。
そのビルのある場所までは、何度か車に乗せられて来たことがあったが、自分で来るのは初めてだった。
そして、建物の中に入るのも今日が初めてだった。
エレベーターの前に立って案内板を見れば、8階建てのこのビルの、6階から8階に渡って入っている会社がある。それが、高岡伊織が経営している会社だった。
エレベーターに乗り込むと、直接8階に来るように言われていた遥は、少しためらいつつも『8』のボタンを押した。
8階のフロアに着くと、目の前に注意書き。
『***コンサルティングに御用の方は、6階の受付へお越しください』せめてジーンズはやめたほうがよかっただろうかと、関係のないことを思いながら、遥は携帯を取り出して、履歴の最初に入っている番号にかける。相手が出る前に切って、ほんの10秒ほど待つと、左の方の扉が開いて、目当ての人の姿が見えた。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||