give me...


6

 手を伸ばした先に、あるはずのものがなかった。
 手と指がシーツをまさぐって、それから目が開く。一緒に寝ているはずの男の姿が見当たらないことは、寝ぼけてかすんだ目にも容易にわかった。
「ん……何時だ……?」
 光の加減から、まだ7時前と見当をつける。だとしたら、最後に時間を確認してから2時間といったところか。
「にんげんじゃねえ……」
 遥はぼやいて、もぞもぞと身体を起こした。酷使された場所だけでなく、身体のあちこちが痛むのは気のせいではないはずだが、あえて無視する。それより、鏡を見なくてもわかる片目の腫れが気になった。
「うわぁ。最悪」
 そんなに泣いたっけと考えて、いろいろ思い出してしまった。そういえば、散々泣かされていたような。朝っぱらから具体的なことは思い返したくもないのだが………まあ、ちょっと言葉にするのもはばかられるあれやこれやなわけだ………どうしてああも、人の一番嫌がることを嬉々としてやれるのか、遥には理解に苦しむ。ただわかるのは、SM趣味の変態鬼畜男は、遥を縛るのも玩具で弄るのも大好きだが、何より泣かすのを楽しみにしているらしいということ。
 遥が泣くと優しくなるというより、泣いた時点で目的が達成されるから、攻めが緩むというだけの話で。
 どうしてそんな男と同棲する気になったのか、考えてみればそれそのものが気の迷いとしか………。ブルーになりかけて、遥は首を振った。
「ったく、パジャマくらい着せろよ」
 眠気と疲れで朦朧とした中、風呂に入れてもらった記憶はあるし、身体もさっぱりしていた。なのに全裸なのはどうしてかと、赤い痕が山ほど残る自分の素肌を見下ろし、嘆息する。
 立ち上がるのには、ちょっと勇気が要った。が、意外とあっさり立てたので、床に落ちたままだった高岡のワイシャツを拾ってさっとはおると、遥は男がいるはずのダイニングへ向かった。


「まだしたりないのか?」
「冗談。三日はもういい」
「だったらせめて下着着けて来い、馬鹿」
 高岡と目が合って最初の会話がそれだった。
 ダイニングの椅子に腰掛けてコーヒーを飲んでいた高岡は、遥の予想通り、あとネクタイをして上着を着れば出かけられる状態だ。軽く朝食も採ったのだろう、あいた皿がテーブルに置かれているのを横目に、遥はワイシャツのすそを無意味に引っ張って、ゆっくりと男に歩み寄った。
「だから。それで隠そうっていうのが無理だろ」
 遥は、本当に恋人のワイシャツ以外何も身に着けていない。激しい情事をほのめかす身体は、恋人相手でなくても十分目の毒だった。
「おいで」
 穏やかなのは外面だけか、それとも散々遥をいたぶって少しは落ち着いたのかわからないが、とにかく高岡は苦笑交じりのやさしい目で遥を見上げ、1メートルほど手前で立ち止まった彼を手招きした。
 遥はそれを幸いに、今度はすばやく近づいて、相手が面食らっているうちにその膝の上に無遠慮に乗り上げた。ちょうど座りやすそうだなと思っていたのだ。
「おい、こら」
「おはよう」
「ああ。何やってるんだ?」
「俺の椅子」
「椅子になった覚えはないぞ」
 言いながら、高岡がシャツのボタンをとめていく。
「おまえ、俺の理性を何だと思ってるんだ?」
「あんだけやっといて、今さら理性がどーのって問題?」
「まだ足りないけどな」
「嘘つけ!」
 高岡の理性が強固かどうかは別として、今から手を出される可能性はゼロに近いとわかっているから、遥は半裸でも平気で男の膝に乗っかっていられる。わざわざこの時間に起きてきて、さっさと出勤しない男ではないのだ。たとえ目の前に餌がぶら下がっていたとしても……もうすでに釣ってある魚なのだし。
 ボタンを上から下まできっちりとめて、相手に背中を向けるように抱えなおされると、高岡の顔が見づらくなった。姿勢を変えて振り返ろうとすると、抵抗にあう。
 仕方なく、遥は背後に身体を預けた。
 背に感じる体温が心地良い。


「しばらく、留守にしてもいいか?」
 遥の肩に顎を乗せるようにして話し掛けてきた言葉の意味を、遥は一瞬頭の中で反芻してから、きゅうっと眉根を寄せた。
「嫌だって言ったら?」
「どうしても嫌だというなら、その時はその時だな」
「………どうせ、最初から決めてんだろ」
「拗ねるなよ」
「勝手な奴。そんなにヤバいわけ? それとも、俺のところに帰るのが面倒?」
「馬鹿。こんなに面白くて色っぽくて俺好みのペットを、進んで放って置きたいわけないだろう?」
「俺って猫か何かなのか」
「犬ってガラじゃないよな。……おまえ、有働の話をしてただろう?」
 ふいに話が変わって面食らったが、すぐに言いたいことはわかった。女……愛人がどうこうといった話のことだ。それを言ってキレられたわけだが……遥が慎重にうなずくと、ぎゅっと抱きしめられた。
「有働なんかは、慎ましいもんさ。とりあえず、顔を売っとけってだけのことだからな。厄介なのは、親父のほうなんだよ」
「……結婚しろってこと?」
 椎名も似たようなことを言っていたが、それはあくまで有働の側のことだった。自分で口にした言葉にむかつきつつ、いったい、この男の身辺はどうなっているのかと頭を抱えたくなってしまう。
「そう。具体的には、本間の娘なんだけどな」
 こちらが知っているという前提のもとにされる説明に、半分寝ぼけた頭をフル稼働させる必要があった。
 高岡はヤクザではないし、そちらとはまったく繋がりのない、健全な企業を経営している。が、その一方で、関東随一の勢力をもつ指定暴力団である英燐会と切っても切れない繋がりを持っていた。高岡伊織自身は私生児で、母一人子一人の家庭に育ったのだが、実の父親がこの英燐会の会長なのだ。
 本間と言えば、その英燐会会長、堀田恵一の右腕と呼ばれる存在だったはずだ。そんな男の娘婿にしようというのだから、相手の意図は知れている。
「具体的な話まであるのかよ」
 ヤクザだからどうこうといった意識はない。けれど、さすがに本人の口から縁談の話を聞かされて、不快にならずにはいられなかった。
「年寄りの考えてることはわからんよ。俺は、ヤクザになる気はないとずっと言い続けてきて、あっちもそれを承知してたんだ、ついこの間、自分がガンで病院送りになるまではな」
「癌!?」
「前立腺癌。まったく、そんなことで弱気になるなってんだよな、年寄りがよくなる病気だろう?」
「……なんか、嫌な響きの言葉を聞いた」
「おまえは、本当に襲われたいのか?」
「別に何も言ってないだろ!」
「前立腺の診察でもしてくれと言わんばかりの台詞に聞こえたんだけどな」
「誰が頼むかそんなこと!」
 そうか、残念、と笑って高岡が遥を抱えなおす。体勢が不安定なのと、遥の裸の下半身が気にかかるらしい。
「おまえ、重いんだけどな」
「しばらく帰らないって?」
 意図的に元へ戻した話に、高岡が苦笑した。
「おまえなあ。今日明日は何にしろ無理だ、商談で札幌まで行くから」
「今から?」
「いや、昼からだが。会社には出るから、期待されてももう一回ヤルのは無理だぞ」
「しないって」
 本当に、他愛もないやりとりをしているだけなら楽しいのに、と遥は思う。最初から、彼とは会話の波長が合っていて、そういうことも離れられなくなった原因のひとつなのかもしれない。
「で、俺と一緒にいるとややこしいから帰らないってこと?」
「違う。ここへ、ヤクザを近づけたくないだけだ。一度、この家にまで押しかけた野郎がいたんだ、幸いおまえは留守中だったけどな。会社へは絶対来ないように言ってあるし、来たって丁重にお帰り願うが、ここじゃそうもいかないだろう。結局、俺が適当な場所へ移るほうが話が早い。まあ、確かに、勝手に俺の周囲を騒がしている奴らには、お前に近づかせたくないってのもあるけどな」
「ふぅん。でも、なんでそんなあちこちから熱烈なラブコールが来るわけ?」
「……親父と有働だけだぞ。親父はまあ、年食って猜疑心が強くなったら、俺を野放しにしておくのが惜しくなったんだろ。いい息子だったもんで、信頼できると思われてるようだし」
「有働は? なんか、金の運用でどうこうって話を聞いたんだけど」
「誰に」
「宇山」
「あの海坊主もどきか。まあ、何もやってないといえば嘘になるかもしれないな」
「やな婉曲するなよ。結局、伊織がきっぱり断らないのが悪いんじゃないか」
「断ってるって。いろいろあるんだよ」
 どこか言い返した口調が、拗ねた子供じみていたので、遥はおかしくなって微笑した。
「いろいろ揉めてるって?」
「ああ。きな臭い話ばかり聞くからな。おまえも、気をつけろよ。巻き込みたくはないが、もう巻き込んだも同然だからな」
「って言われたってさぁ」
「あまり、出歩いてもらいたくないんだけどな。嫌だろう?」
「無理」
 即答すると、高岡はふっと笑った。
「俺が強欲すぎるのか」
 つぶやいた言葉は、自問するような口調だった。遥が振り向くと、微笑した男がキスしてくる。
「伊織?」
 膝から下ろされ、立ち上がると、高岡も続いて椅子から立って、ことさらに脚をほぐす動きをしてみせた。
「重いんだよ、おまえ。そろそろ出かけるから、寝直すといい」
 そう言って、つっと遥の頬を指でたどる。
「ちゃんと帰ってくるから、心配しなくても」
「……生チョコ」
「はいはい、土産ね。いい子にしてろよ」
 ネクタイを締めながらダイニングを出て行く彼の後ろを、椅子に引っ掛けてあった上着を持って追いかけていくと、廊下に短期出張用に使っているスーツケースが置いてあった。いつの間に準備したのか、といっても遥が寝てから起きてくるまでの間に違いないのだが、なんでそれでも元気なんだろう。
「じゃあな」
 そして、当然のようにいってらっしゃいのキスまでして。
 扉がばたんと閉まって、それから遥は思いっきり壁を蹴りつけた。
「……いたぁっ」
 馬鹿だ、と自分でつぶやきながら、足を引きずって帰る。関係のない場所まで痛かった。
 いろいろなことを一度に吹き込まれて、どうにも整理がつかないのだが、わかることはただひとつ。
 遥自身は、何がどうあったって、高岡に今よりずっと会えなくなるという事態を、許せないということ。
「出てくぞ、馬鹿」
 主のいない家に残される意味は何なんだろうと思いながら、遥はとりあえず寝室へ戻った。
 せめてあと1時間は寝てから、腫れたまぶたの対処法を考えなければ。

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