living on the edge



16.


「一度、家に連絡しておけ」
 そう言って、物凄く気軽に電話を差し出されたのが、その日の夜だった。
「男に拉致られて監禁されてますと言えって?」
 結局8時すぎまで高岡は帰ってこなくて、暇と空腹を持て余していた俺は、不機嫌にそう返した。こんなに何日も家に帰らないのはだいぶ久しぶりではあったけど、決して初めてじゃなく、心配されているなんてまったく思ってなかった。
「長丁場になりそうだからな。おまえは携帯をなくして連絡の取りようがない状況だし、妙な心配されて捜索願を出されるのはさすがに勘弁して欲しい」
「な……」
 長丁場って!……とつっこんだら、「当然お前が堕ちるまでに決まってる」と言われそうな予感がヒシヒシとしたので、俺は無理やり言葉を飲み込んだ。
 だんだんこの男の言動が読めてきている自分に、なにやらむなしくなる。
「このままかけちゃっていいわけ?」
「いいから、そう言ってんだろ」
「俺が警察に電話したりとか、家の人間になんか言ったりすると思わないのか?」
「おまえが、そうしたいと思ってないだろう?」
 困らせたかったわけじゃなく、純粋な興味から訊ねてみれば、思い切りあっさり答えられた。図星なのが、ちょっとムカつく。
「んーー……なんでなんだろうな?」
 逃げ出したくないわけじゃない。だから、何度か唐突に走り出しては捕まっている。で、捕まるたびに、全力で抵抗していない自分に気づく。本気で逃げたいなら、狙い目はセックスの最中とか、高岡が隙を見せているときに、どうにかして昏倒させることだと思うんだけど、そういう気になれない。
 高岡も、俺の中途半端な逃走態度に気づいているから、こんなことを言ってくるんだ。
「誰かに頼ってまで、逃げたいと思ってないだろう、おまえは」
「まあ、あんまりカッコよくはないなあ」
 家に電話して、家族の誰かに助けを求めるとか……考えただけでも無理だ。
 手の中にあるのは、白っぽい色の子機だった。自分の携帯じゃなく、固定電話の子機を渡したのは、高岡にもそれなりに思うところがあったのかもしれない。俺は、この家、電話ついてたのかと妙な感心をしながら――実はリビングにちゃんと置いてあったことに、あとで気づいて凹んだけど――電話を見下ろして、親父が出たらイヤだなあと思っていた。
 俺の様子に何を思ったのか、高岡は俺の頭を撫でて、こんなことを言った。
「ここにいろ。帰りたくないなら帰らなければいい」
 俺は返す言葉が見つからなくて、ただ目を丸くして高岡を見上げるしかなかった。
 高岡は、相変わらず、ごく自然に口説き文句を言う。
「俺のものになれよ」
「……勝手なこと言ってんじゃねーよ」
 なんか、時間がたつにつれて『帰りたくないなら帰らなければいい』という台詞にむかついてきて、俺は低く吐き出した。
「なんでわざわざ強姦魔の世話になんなきゃいけねーんだよ」
 高岡は、嫌味っぽく鼻で笑っただけで何も答えず、
「さっさと電話しろよ。晩飯の用意してるからな」
 と言い置いて部屋を出て行った。
「おいおい。マジでいいのかよ」
 そこまで自信をもたれると、かえって反抗したくなる。とはいえ、電話機の数字のボタンの上をひとしきりさまよった指は、勝手に家の電話番号を押し始める。
 呼び出し音が鳴り始めて、やっぱやめよう、と思ったときには、母親が出ていた。
『もしもし? どちらさまですか』
 数秒黙っていたら、怪訝そうに聞き返される。考えてみたら、母と電話で会話したことなんて、ほんの一、二度、あるかないかじゃないか。
「あ、俺。遥だけど」
『遥くん!? どこへ行ってるの。ねえ、帰ってこないなら、せめて連絡だけでもしてちょうだい。携帯はどうしたの?』
 俺だとわかると、たたみかけるように話しかけられた。
 俺はどうしていいかわからなくなって、口をつぐんだ。今でこそ心配してくれてたんだ、と思えるけれど、当時の俺にそんな余裕なんてなくて、ただただ対処に困るだけだった。
「どうもしないよ。しばらく帰んないから」
 俺はそれだけ言い捨てると、慌てたように通話を切った。
 男に拉致られて大変ですなんて、言えるわけないじゃないか。必要なことのひとつも、言えたためしがないというのに。
 俺はなんだか落ち込んで、電話を放り出してベッドに寝転がった。
 俺は、ここから出て行きたくないのか。
 その疑問がちらりと浮かんで、ばかばかしい、と即座に否定する。
 それなのに、助けを求める電話のひとつもできないのは、困った矛盾だった。


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